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カーボベルデの歴史 : ミニ英和和英辞書
カーボベルデの歴史[かーぼべるでのれきし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

カー : [かー]
 【名詞】 1. car 2. (n) car
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
歴史 : [れきし]
 【名詞】 1. history 

カーボベルデの歴史 : ウィキペディア日本語版
カーボベルデの歴史[かーぼべるでのれきし]
カーボベルデの歴史(カーボベルデのれきし)では、カーボベルデ共和国歴史について述べる。
== ポルトガル植民地時代 ==

15世紀まで無人島だったカーボベルデ諸島にて、人間の歴史が始まるのは1460年のポルトガル人の入植以降である〔市之瀬(1997:35)〕。カーボベルデの発見者とその時期については諸説があり、1455年のジェノヴァ商人アントニオ・ダ・ノリとポルトガル人航海者ディオゴ・アフォンソによる到達が最初の発見だとする説〔市之瀬(1997:38)〕、1456年のヴェネツィアカダモストによる到達が最初の発見だとする説〔小川編著(2010:263)〕など諸説が存在する〔。
1462年に植民地化が開始されると、当初ポルトガル人はマデイラ諸島アソーレス諸島で行ったように、西アフリカからカーボベルデに奴隷を移入して砂糖を生産しようとしたが、この試みはサヘルの延長にある雨の降らないカーボベルデの厳しい気候や、土壌の不毛さによって失敗した〔市之瀬(1997:38-40)〕〔小川編著(2010:270)〕。しかし、サンティアゴ島リベイラ・グランデ(現在のシダーデ・ヴェーリャ)は「新大陸の発見」後、インドブラジル西インド諸島アフリカイベリア半島を結ぶポルトガル船の寄港地となることに成功し、この役割のため、カーボベルデは植民地として存続することに成功した〔デ・オリヴェイラ・マルケス/金七訳1(1981:200)〕〔デ・オリヴェイラ・マルケス/金七訳2(1981:83-84)〕。しかし、この役割は海賊を引き寄せるのにも十分魅力的なものであり、1542年のフランス海賊の襲撃を嚆矢に、1578年と1585年にはイングランドの海賊フランシス・ドレークによる襲撃が行われるなど、16世紀半ば以降海賊の跳梁が続いた〔デ・オリヴェイラ・マルケス/金七訳2(1981:84)〕。カーボベルデ防衛のためにポルトガル王は要塞を建設し、1587年にはリベイラ・グランデに総督を設置した〔。しかし、総督府は1652年にプライアに移動し、以降リベイラ・グランデは衰退した〔。16世紀から17世紀にかけてカーボベルデはアフリカとアメリカ大陸を結ぶ奴隷貿易の中継地として栄え、島内ではポルトガル人入植者の男性と黒人奴隷の女性の間で混血が進み、今日まで続くクレオール的な社会が形成された〔市之瀬(1997:40-41)〕〔小川編著(2010:271-272)〕。
17世紀末から18世紀にかけてカーボベルデの経済は停滞していたが、1757年にカーボベルデと西アフリカ大陸部のポルトガル領ギニアグラン・パラ=マラニャン会社に委ねられると経済的な活性化が進み、無人島だったサント・アンタン島サン・ヴィセンテ島サン・ニコラウ島サル島への入植が進んだ〔デ・オリヴェイラ・マルケス/金七訳2(1981:157-158)〕。18世紀の間には、1712年と1798年にフランス海賊による襲撃があった〔デ・オリヴェイラ・マルケス/金七訳2(1981:158)〕。
19世紀に入ると、旱魃飢饉が周期的に繰り返されるカーボベルデから、島外への移民が進んだ〔市之瀬(1997:46)〕。カーボベルデ人は19世紀前半からアメリカ合衆国マサチューセッツ州ロードアイランド州を始めとするニューイングランド地方に移住を進め(カーボベルデ系アメリカ人)、現在もアメリカ合衆国は世界最大のカーボベルデ人のディアスポラの地となっている〔市之瀬(1997:46-49)〕。1880年代にポルトガルの海運業が発達すると、カーボベルデのミンデロヨーロッパ南アメリカを中継する船舶の新たな石炭補給港として栄えた〔デ・オリヴェイラ・マルケス/金七訳3(1981:27)〕。
20世紀に入ると、ポルトガルはアンゴラギニアモザンビークティモールの各植民地で、住民をポルトガル語とポルトガル文化を身につけた「同化民」(アシミラド)とそれ以外の「原住民」に分け、前者にはポルトガル市民と同等の権利を認め、後者には重労働を強制したが、カーボベルデインドマカオの住民にはこの「同化民」のカテゴリは設けられず、実質的にポルトガル市民と同等であった〔デ・オリヴェイラ・マルケス/金七訳3(1981:144-146)〕。
宗主国のポルトガルでは1933年に保守的、反自由主義的なエスタド・ノヴォ体制を構築したアントニオ・サラザール首相が第二次世界大戦後も政権を握り続け、1951年にサラザールは植民地の呼称を「海外州」と呼び換えて国際連合脱植民地化決議を無視し、「海外州」の独立を認めない方針を強固に打ち出していた〔金七(2003:218-224,238)〕。カーボベルデ出身のアフリカ人ナショナリストアミルカル・カブラルは1956年に独立を目指してギニア・カーボベルデ独立アフリカ党(PAIGC)を結成し、1958年のビサウにおける港湾ストライキに対するポルトガル当局の虐殺以後は武装闘争路線を採用し、1963年にポルトガル領ギニアで独立戦争を開始した〔小川編著(2010:274-275)〕。PAIGCは着々と解放区を拡大し、1968年11月にはポルトガル現地軍司令官のアントニオ・デ・スピノラ将軍がマルセロ・カエターノ首相に軍事的勝利は不可能だとして和平を進言するほどであった〔金七(2003:250-251)〕。1973年1月20日にアミルカル・カブラルは暗殺されたが、アミルカル・カブラルの弟のルイス・カブラルが党首に、アリスティデス・ペレイラが書記長に就任したPAIGCはポルトガル軍に対して猛攻撃を仕掛け、1973年10月24日にPAIGCはマディナ・ド・ボエギニア=ビサウの独立を宣言し、国際連合も同年11月2日の総会で、賛成多数でギニア=ビサウの独立を承認した〔中村(1982:252)〕。その後、ギニア=ビサウで勤務したポルトガル軍の軍人が主体となって形成された国軍運動(MFA)が、1974年4月25日に起こしたカーネーション革命によってエスタド・ノヴォ体制が崩壊すると、新たに誕生したポルトガルの左派政権は植民地戦争を終結させ、1975年中に各植民地で独立戦争を戦ってきた組織に独立後の国家建設を託した〔金七(2003:250-264)〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「カーボベルデの歴史」の詳細全文を読む




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