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カール・グスタフ戦争(デンマーク語:Karl Gustav-krigene)とは、1657年から1660年に及ぶ、デンマークとスウェーデン間の戦争を指す。しばしばこの戦争は、スウェーデンを中心とした「北方戦争」の一戦役に数えられる。当時のスウェーデン王カール10世グスタフによって起こされた為、デンマークから命名された。 == 前史 == デンマーク・スウェーデン間の戦争に至る経緯は、当時スウェーデンが王位継承問題を巡り、カール10世がポーランド・リトアニア共和国(俗に「ポーランド」と呼ばれる)にポーランド・スウェーデン戦争を仕掛けた事から始まっている。当時のポーランド・リトアニア連合、すなわちポーランドはウクライナ・コサックの首領ボフダン・フメリニツキーの大規模な反乱(フメリヌィーツィクィイの乱)を契機として「大洪水時代」と呼ばれるモスクワ大公国(ロシア・ツァーリ国)を巻き込んだ大戦乱に陥っていた。スウェーデン王カール10世は、スウェーデン王位継承権を持つポーランド国王ヤン2世にスウェーデン王位を諦めさせさせプファルツ王朝によるスウェーデン王位を確固とする為、ポーランドの戦乱に介入した。 スウェーデン軍は緒戦はワルシャワの戦いなどで大勝し、ポーランド・リトアニア王国のうちのポーランド王国の最南部を除く大半を席巻し、リトアニア大公国の大貴族(マグナート)ともケダイネイ合同を結び共和国を分裂させ、プロイセン公兼ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムにカール10世に忠誠を誓わせた。さらにブランデンブルク=プロイセンやロシアを含めポーランド分割を企てたものの、スウェーデンの強大化を警戒した近隣諸国はスウェーデンとの共闘関係を打ち切り、ポーランド人はヤスナ・グラ修道院を中心にレジスタンスを行った。この蜂起に勇気付けられポーランドは反撃を開始し、スウェーデンとリトアニア大公国との合同を阻止する。 その後ウクライナでの内乱が静まったポーランドは、チェンストホヴァのヤスナ・グラの戦いでスウェーデン軍の進撃をくい止めた。元々スウェーデンに比べてはるかに人口の多かったポーランド・リトアニア連合は、共和国全土を挙げ、それ以降は防衛戦争として軍事的にも外交的にも全力で大反撃を開始した。共和国のいまだ強大であった底力を見せ付けられ、スウェーデン軍はそれ以後あっけない連敗を重ね、カール10世はスウェーデン軍がかろうじて勢力を維持していた最北部バルト海沿岸のポメラニア地方のうちの狭い地域にまで追い詰められ、孤立して非常に危険な状態に陥ることとなる。 フリードリヒ・ヴィルヘルムは再びポーランドに忠誠を誓い、ロシアもまたスウェーデンに宣戦布告した。スウェーデンの同盟国、トランシルヴァニア公ラーコーツィ・ジェルジ2世もポーランド軍に敗れ故国に戻された。北方戦争に対し中立的であったデンマークは、ポーランドにおけるスウェーデン軍の失敗を見逃さず、これをバルト海における覇権奪回と失地奪還の好機と捉え、オランダと結び、スウェーデンに宣戦布告した。 1658年、カール10世はポーランドに再侵攻を試みるも共和国の厚い守りに遮られ、ロシア・デンマーク(カール・グスタフ戦争)との交戦も本格化、戦況の暗転と共に1659年に最終的に撤退した。しかし共和国もこの戦争で国力を消耗し、スウェーデンの撤退後にロシアとの戦争が再開された。ポーランドは、カール10世のポーランド併合の野心を阻止したものの、ポーランド=ヴァーサ家は最終的にスウェーデン王位請求権を放棄した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カール・グスタフ戦争」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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