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カール・テオフィル・ギシャール(Karl Theophil Guichard〔姓のGuichardはGuischardtとも表記される。〕, もしくはカール・ゴットリープ・ギシャール(Karl Gottlieb Guichard), 1724年9月27日 - 1775年5月13日)は、プロイセンの古代学者、軍事史家、そして軍人。最終階級は大佐。フリードリヒ大王に仕えて貴族となった。さらには経済人としても成功、プロイセンのタバコ専売事業に係わったほか、プロイセン銀行の前身である王立銀行の長を務めた。その変わった経歴と多くのエピソードによって知られる。 ギシャールは大王よりクィントゥス・イキリウス(Quintus Icilius)の名を与えられた。こちらの名前でも広く通じている。 == 経歴 == === 出自 === ギシャールはプロイセン王国の都市マクデブルクで亡命ユグノーの家庭に生まれた。父はプロイセンの官僚であった。 ギシャールは一方で神学を、もう一方で古典諸学を学んで、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語を修め、さらにオリエントのいくつかの言語をも学んだ。この過程でギシャールはハレ大学、マールブルク大学、ヘルボルン大学、そしてライデン大学を渡り歩いた。ギシャールは牧師見習として大学で説教を行ったこともあるが、最終的には古代学研究の道に進むことを選んで牧師にはならなかった。 その後ギシャールはライデン大学で講師をしつつ教授の地位の獲得を目指して活動したが上手く行かなかった。オランダ統領ウィレム4世よりユトレヒト大学教授の地位を請け合われたこともあったが、現地ではすでに別の人物が教授として選出されていて、結局ここでも教授となることに失敗した。次いでギシャールはオランダ統領家に司書として召抱えられることを望んだが、こちらも失敗した。 こののちギシャールは進路を変更して軍人となった。1747年、ギシャールはオランダ軍に所属してオーストリア継承戦争に従軍した。戦争は翌年には終結するがギシャールはその後もしばらく軍に残り、1752年に大尉で除隊した。 軍人となってからギシャールは、古代ローマ軍とギリシャ軍についての軍事史を確立することを目指して研究に取り組み始めていた。除隊後ギシャールは一度マクデブルクに戻り、兄弟の元に身を寄せながら研究を続けたが、のちに豊かな資料を求めてイギリスに渡り、七年戦争が本格化する1757年まで研究と著作活動に従事した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カール・テオフィル・ギシャール」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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