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カール・ニールセン(またはニルセン、 Carl August Nielsen , 1865年6月9日 - 1931年10月3日)は、デンマークの作曲家である。 デンマークでは最も有名な作曲家であり、以前のデンマーク100クローネ紙幣にはその肖像が描かれていた。同国を代表する作曲家としてだけではなく、北欧の重要な交響曲作家として知られている。 同国の作曲家にルドルフ・ニールセン(1876年1月29日 - 1939年10月16日)がいるが、縁戚関係はない。同年生まれの北欧の作曲家に、フィンランドのジャン・シベリウスがいる。 6つの交響曲(特に第4番、第5番に代表される)のほかに3つの協奏曲、管弦楽曲、オペラ、室内楽曲、芸術歌曲を手がけた。一方大衆向けの歌曲・合唱曲を数多く残し、これらは今日もデンマークの学校や家庭などに広く普及し、歌われている。 == 生涯 == *1865年 フュン島のノーレ・リュンデルセに生まれた。アンデルセンの出身地オーデンセから12kmほどはなれた農村地帯である。父ニルス・ヨアンセンはペンキ職人で、兄弟は12人の大世帯で貧しい生活だったが、音楽の趣味があった。 *1871年(6歳) この頃から、父の楽団に入りヴァイオリンを弾くようになった。 *1879年(14歳) オーデンセの軍楽隊に欠員が出たため応募し、わずか1ヶ月の練習で合格した。この時はホルンとトランペットを扱った。 *1884年 コペンハーゲンの音楽院をヴァイオリンで受験したが不合格。作曲家のニルス・ゲーゼに作品を見せることによって作曲科に合格が許された。音楽院時代にはヴァイオリン・ソナタ、弦楽四重奏曲などの習作を手がけた。 *1888年 卒業後に「弦楽四重奏曲第1番」、「弦楽五重奏曲」、「弦楽のための《小組曲》」などの作品を発表する。翌年にかけて交響曲に試みるが挫折。その第1楽章が「交響的ラプソディ」となった。 *1889年 王立劇場オーケストラのヴァイオリン奏者となり、ヨハン・スヴェンセン(Johan Svendsen, 1840年 - 1911年)のもとでオーケストラの活動が始まった。 *1891年 パリでアンネ・マリー・ブローデルセン(彫刻家)と出会い、結婚。 *1892年 交響曲第1番を完成。作曲家として順調な活動を開始した。 *1901年 4幕からなる歌劇『サウルとダヴィデ』を完成。 *1902年 交響曲第2番『四つの気質』を発表。 *1903年 ギリシャを旅し、エーゲ海の日の出に感激して序曲『ヘリオス』を作曲した。 *1906年 2作目の歌劇『仮面舞踏会』、「弦楽四重奏曲第4番」を発表。 *1908年 スヴェンセンが王立劇場楽長を引退し、その後を引き継いだ。 *1911年 交響曲第3番『ひろがりの交響曲』 、ヴァイオリン協奏曲を完成。 *1914年 第一次世界大戦のため王立劇場楽長を辞任。 *1915年 王立コペンハーゲン音楽院の理事に就任。音楽協会で指揮者として活動した。 *1916年 交響曲第4番『不滅(滅ぼし得ざるもの)』を完成。ピアノ曲「シャコンヌ」、「主題と変奏」を発表。 *1922年 交響曲第5番、管楽五重奏曲を完成。このころより作風が変化し、より難解で内向的なものになっていく。 * 管楽五重奏曲はコペンハーゲン管楽五重奏団のために書かれ、メンバー全員のために5つの協奏曲を書くことも計画していたが、作曲者の死によりフルート協奏曲(1926年)とクラリネット協奏曲(1928年)の2曲で終わった。 *1925年 交響曲第6番『素朴な交響曲』を完成。 *1931年 オルガン曲「コンモツィオ」完成。王立コペンハーゲン音楽院の院長に就任。逝去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カール・ニールセン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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