翻訳と辞書
Words near each other
・ カール・フリードリヒ・シンパー
・ カール・フリードリヒ・ツァイス
・ カール・フリードリヒ・ツェルター
・ カール・フリードリヒ・ヒエロニュムス・フォン・ミュンヒハウゼン
・ カール・フリードリヒ・フィリップ・フォン・マルティウス
・ カール・フリードリヒ・フォン・シュタインメッツ
・ カール・フリードリヒ・フォン・ピュックラー=ブルクハウス
・ カール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカー
・ カール・フリードリヒ・メールヴァイン
・ カール・フリードリヒ・モール
カール・フリードリヒ・ルンゲンハーゲン
・ カール・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ツー・ライニンゲン
・ カール・フレシュ
・ カール・フレッシュ
・ カール・フレッシュ国際ヴァイオリン・コンクール
・ カール・フレデリク (シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公)
・ カール・フレドリック・ファーレン
・ カール・フレンゼル
・ カール・フレンツェル
・ カール・フレーリッヒ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

カール・フリードリヒ・ルンゲンハーゲン : ミニ英和和英辞書
カール・フリードリヒ・ルンゲンハーゲン[かー]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

カー : [かー]
 【名詞】 1. car 2. (n) car
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

カール・フリードリヒ・ルンゲンハーゲン : ウィキペディア日本語版
カール・フリードリヒ・ルンゲンハーゲン[かー]

カール・フリードリヒ・ルンゲンハーゲンCarl Friedrich Rungenhagen 1778年9月27日 - 1851年12月21日)は、ドイツ作曲家、音楽教師
== 生涯 ==

ルンゲンハーゲンは当初の下で絵画を学んでいたが、これをやめて父の貿易会社に加わった。そこで彼は1796年から父の死まで働き、その後は音楽に専念するようになった〔Eitner (1889)〕。
ルンゲンハーゲンは1801年に合唱団ベルリン・ジングアカデミーに入団、カール・フリードリヒ・ツェルターの弟子となった。1815年には指揮者代理となり〔、1833年にはツェルターの跡を継いで団の運営を引き受けることになる。アカデミーの役員総会において、ルンゲンハーゲンが代表に選出された選挙については異論がなかったわけではない。対抗馬には同じくツェルターの教え子であったフェリックス・メンデルスゾーンがいたのである。メンデルスゾーンは1829年に有名なバッハの「マタイ受難曲」の復活公演をアカデミーで成功に導いており、またフェリックスを含むメンデルスゾーン一家の面々が長く合唱団で歌い、アカデミーを支えてきたという状況があった。しかし、これらの貢献ではアカデミーを率いるには十分とはいえないということになってしまった。ルンゲンハーゲンが成功したのは反ユダヤ主義のためだと考える者もいる〔Mercer-Taylor (2000) 112-4〕。その後メンデルスゾーンがベルリンへと引き返したのは、落選の影響によるものとも考えうる。
アカデミーの指揮者に就任したルンゲンハーゲンは、引き続きバッハの音楽の再興に努めた。1833年には、バッハの死後初めてとなる「ヨハネ受難曲」の公演で指揮をしている〔〔。また1835年には、同じくバッハの「ミサ曲 ロ短調」のほぼ全曲の演奏を行った〔。彼はヘンデルオラトリオにも注力し、1840年には5回の公演を行っている。同時代の作曲家のオラトリオも取り上げており、弟子のカール・エッケルトの「ルース ''Ruth''」や自作の「ユディス ''Judith''」などを演目に取り入れた。彼がジングアカデミーを指揮して初演したオラトリオは30作品にのぼる〔。彼自身が作曲した楽曲は主として教会音楽、オラトリオ、カンタータ歌曲であった。
ルンゲンハーゲンはベルリン芸術アカデミーでも音楽教師として教鞭を執り、1843年には教授に任用された。彼の門弟にはアルベルト・ロルツィングルイス・レヴァンドフスキスタニスワフ・モニューシュコ、カール・エッケルト、アウグスト・コンラーディアレクサンダー・フェスカなどがいる〔ニューグローヴ世界音楽大事典における、これら音楽家の項を参照のこと。〕。また、ルンゲンハーゲンはベルリンでフリーメイソンのロッジのメンバーにもなっていた。
ルンゲンハーゲンは1851年12月にベルリンで73年の生涯を閉じ、遺体は〔訳注:18世紀後半建設、ベルリン、ドロテーエンシュタットの墓地。プロテスタントの墓地でベルリン、ミッテ区ランドマークとなっている。〕に埋葬された。彼の次にアカデミーの指揮者を引き継いだのはであった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「カール・フリードリヒ・ルンゲンハーゲン」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.