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カール・マリア・ヴィリグート(Karl Maria Wiligut、1866年12月10日‐1946年1月3日)は、ナチス・ドイツ親衛隊(SS)の将軍。独特な神秘主義とオカルトを信仰し、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーから絶大な信任を得て親衛隊の宗教思想に大きな影響を与えた人物。「ヒムラーのラスプーチン」の異名をとる。 == 経歴 == オーストリア・ハンガリー帝国の首都ウィーンに生まれる。ローマ・カトリック教会の洗礼を受けた〔Hans-Jürgen Lange: Weisthor, Himmlers Rasputin und seine Erben, 1998, page 31〕 。17歳の時にオーストリア軍に徴兵された。歩兵部隊に配属され、1888年に中尉に昇進した。1889年に準フリーメーソン団体「Schlaraffia-Loge」に参加。1903年には「Lobesam」のペンネームで最初の自著「Seyfrieds Runen」を出版した。1906年に結婚。1908年には「Neun Gebote Gots」を出版。ここで初めて自分が「」(イルミネンシャフト)なる古代宗教の継承者であることを主張しだした。 第一次世界大戦中には南部や東部戦線に従軍。1917年8月1日には大佐に昇進。まもなく前線勤務を離れてレンベルク近くの療養収容所の司令官となった。第一次世界大戦敗戦後の1919年1月1日に軍を退職した。40年にも及ぶ軍隊生活であった。その後はザルツブルク近くのモルツクに移り、ここでオカルト研究に没頭した。また新聞「Der Eiserne Besen」を発行した。「暗黒の力の陰謀」が世界中にあると確信して、反ユダヤ主義・反フリーメーソン・反カトリック教会の思想をばらまくようになった〔Goodrick-Clarke, Nicholas: The Occult Roots of Nazism, 2005, p182〕。 彼の妻は彼の奇妙な思想にはついていかれず、精神病院への入院を勧めた。1924年11月29日に警察に逮捕されたのを機にヴィリグートは実際に数年間精神病院で過ごすこととなった。ヴィリグートの医療記録には自分の妻に「殺す」と言って脅迫することを含む家庭内暴力の傾向、変人行動、オカルトへの興味などが特筆されている。病院から統合失調症と誇大妄想を診断された。ザルツブルクの法廷からも責任能力なしと断定された。1927年から1932年までザルツブルクの精神病院で過ごした。彼は妻と離婚し、家族とも縁を切ってドイツのミュンヘンへと移住していった。 ナチス党政権掌握後の1933年9月に親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーと知り合い、ヒムラーに気にいられて北方人種文化政治協会(Nordische Gesellschaft)のメンバーに招かれた。さらにヒムラーの親衛隊(SS)にも入隊。この際になぜか「カール・マリア・ヴァイストール(Karl Maria Weisthor)」という偽名で入隊している。親衛隊人種及び移住本部(RuSHA)の先史学部長に任じられた。1934年4月には親衛隊大佐(SS-Standartenführer)の階級が与えられた。1934年10月にRuSHA VIII部(公文書保存部)の部長となった。11月には親衛隊上級大佐(SS-Oberführer)に昇進。1935年春にベルリンへ移動し、カール・ヴォルフが長官をつとめる親衛隊全国指導者個人幕僚部(Persönlicher Stab Reichsführer SS)に配属されてヒムラーの個人スタッフの一人となった。1936年9月に親衛隊少将(Brigadeführer)に昇進。 1934年には「世界の中心」という寓話のある古城ヴェヴェルスブルク城(Wewelsburg)を親衛隊で購入して立て直すようヒムラーに薦めた。以降親衛隊はこの城でヴィリグートのイルミン教の宗教観念に基づく怪しげな魔術の儀式を執り行うようになった。親衛隊員の結婚式もこの城で頻繁に行われるようになり、ヴィリグートは司祭のような役割を果たしていた。1937年1月4日にはヴィリグートの上司のカール・ヴォルフの一番上の息子もここで洗礼を受けている。 一方グイド・フォン・リストの起こした民族主義的なゲルマン異教思想「ヴォータニズム」(Wotanismus)とは、似た思想でありながら敵視していた。ヴィリグートはヒムラーに求めてヴォータニズムの信者たちを次々とナチス強制収容所へ送らせている。またヴォータニズムが提唱する「アルマネン・ルーン(Armanen runes)」に対抗して「ヴィリグート・ルーン(Wiligut runes)」を創出した。ヴィリグートのヴォータニズム敵視の理由については下記のイルミン教の項目を参照のこと。 アーネンエルベの初代長官ヘルマン・ヴィルス(Herman Wirth)は、ヴィリグートにいい印象を持っていなかった。ヴィリグートのことを「もうろくしたアルコール中毒者」「グイド・フォン・リストの泥棒」と評して敵対した。しかしヒムラーのヴィリグートへの信任は厚く、1937年にヒムラーはヴィルスをアーネンエルベ長官の地位から追っている。 しかしアンシュルス(オーストリア併合)後の1938年10月にオーストリアでのヴィリグートの経歴、すなわち精神病院入院の過去がカール・ヴォルフに漏れた。ヴォルフはただちにヒムラーにこれを報告した。しかもちょうどこの頃、ヴィリグートはヒムラーの側近の女性に「親衛隊全国指導者は私の子供が欲しいそうだ。つまり私と貴女の子供だ。貴女は大変に名誉あるご指名を受けたのだ。」などと言って関係を迫っていた。その女性はヒムラーに抗議したが、ヒムラーには寝耳に水だった。ヴィリグートに子作りを命じた覚えなどない。こうしてヴィリグートは完全にヒムラーの信任を失った。1939年8月28日にヴィリグートは高齢や病を理由にSSから除隊させられた。ヴィリグートと完全に手を切りたがっていたヒムラーは、SS髑髏リングやSS長剣、SS短剣などの返却を求めたが、ヴィリグートは「最後の連帯の証しだ」といって自分の物にしてしまった。 この後勃発した第二次世界大戦中にはアウフキルヒェン(Aufkirchen)、1940年からゴスラー(Goslar)、1943年からヴェルター湖(Wörthersee)で暮らした。戦後はヴァルター湖近くの聖ヨハンの難民キャンプで生活したが、脳出血に苦しんだ。この後ザルツブルクへ戻る許可を得た。しかしすぐにヘッセン州のアロルゼンへと移住した。1946年1月3日にここで死去している。彼の墓石には「私たちの人生は無駄なおしゃべりのように過ぎ去る。(UNSER LEBEN GEHT DAHIN WIE EIN GESCHWÄTZ)」と刻まれている。''」(イルミネンシャフト)なる古代宗教の継承者であることを主張しだした。 第一次世界大戦中には南部や東部戦線に従軍。1917年8月1日には大佐に昇進。まもなく前線勤務を離れてレンベルク近くの療養収容所の司令官となった。第一次世界大戦敗戦後の1919年1月1日に軍を退職した。40年にも及ぶ軍隊生活であった。その後はザルツブルク近くのモルツクに移り、ここでオカルト研究に没頭した。また新聞「Der Eiserne Besen」を発行した。「暗黒の力の陰謀」が世界中にあると確信して、反ユダヤ主義・反フリーメーソン・反カトリック教会の思想をばらまくようになった〔Goodrick-Clarke, Nicholas: The Occult Roots of Nazism, 2005, p182〕。 彼の妻は彼の奇妙な思想にはついていかれず、精神病院への入院を勧めた。1924年11月29日に警察に逮捕されたのを機にヴィリグートは実際に数年間精神病院で過ごすこととなった。ヴィリグートの医療記録には自分の妻に「殺す」と言って脅迫することを含む家庭内暴力の傾向、変人行動、オカルトへの興味などが特筆されている。病院から統合失調症と誇大妄想を診断された。ザルツブルクの法廷からも責任能力なしと断定された。1927年から1932年までザルツブルクの精神病院で過ごした。彼は妻と離婚し、家族とも縁を切ってドイツのミュンヘンへと移住していった。 ナチス党政権掌握後の1933年9月に親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーと知り合い、ヒムラーに気にいられて北方人種文化政治協会(Nordische Gesellschaft)のメンバーに招かれた。さらにヒムラーの親衛隊(SS)にも入隊。この際になぜか「カール・マリア・ヴァイストール(Karl Maria Weisthor)」という偽名で入隊している。親衛隊人種及び移住本部(RuSHA)の先史学部長に任じられた。1934年4月には親衛隊大佐(SS-Standartenführer)の階級が与えられた。1934年10月にRuSHA VIII部(公文書保存部)の部長となった。11月には親衛隊上級大佐(SS-Oberführer)に昇進。1935年春にベルリンへ移動し、カール・ヴォルフが長官をつとめる親衛隊全国指導者個人幕僚部(Persönlicher Stab Reichsführer SS)に配属されてヒムラーの個人スタッフの一人となった。1936年9月に親衛隊少将(Brigadeführer)に昇進。 1934年には「世界の中心」という寓話のある古城ヴェヴェルスブルク城(Wewelsburg)を親衛隊で購入して立て直すようヒムラーに薦めた。以降親衛隊はこの城でヴィリグートのイルミン教の宗教観念に基づく怪しげな魔術の儀式を執り行うようになった。親衛隊員の結婚式もこの城で頻繁に行われるようになり、ヴィリグートは司祭のような役割を果たしていた。1937年1月4日にはヴィリグートの上司のカール・ヴォルフの一番上の息子もここで洗礼を受けている。 一方グイド・フォン・リストの起こした民族主義的なゲルマン異教思想「ヴォータニズム」(Wotanismus)とは、似た思想でありながら敵視していた。ヴィリグートはヒムラーに求めてヴォータニズムの信者たちを次々とナチス強制収容所へ送らせている。またヴォータニズムが提唱する「アルマネン・ルーン(Armanen runes)」に対抗して「ヴィリグート・ルーン(Wiligut runes)」を創出した。ヴィリグートのヴォータニズム敵視の理由については下記のイルミン教の項目を参照のこと。 アーネンエルベの初代長官ヘルマン・ヴィルス(Herman Wirth)は、ヴィリグートにいい印象を持っていなかった。ヴィリグートのことを「もうろくしたアルコール中毒者」「グイド・フォン・リストの泥棒」と評して敵対した。しかしヒムラーのヴィリグートへの信任は厚く、1937年にヒムラーはヴィルスをアーネンエルベ長官の地位から追っている。 しかしアンシュルス(オーストリア併合)後の1938年10月にオーストリアでのヴィリグートの経歴、すなわち精神病院入院の過去がカール・ヴォルフに漏れた。ヴォルフはただちにヒムラーにこれを報告した。しかもちょうどこの頃、ヴィリグートはヒムラーの側近の女性に「親衛隊全国指導者は私の子供が欲しいそうだ。つまり私と貴女の子供だ。貴女は大変に名誉あるご指名を受けたのだ。」などと言って関係を迫っていた。その女性はヒムラーに抗議したが、ヒムラーには寝耳に水だった。ヴィリグートに子作りを命じた覚えなどない。こうしてヴィリグートは完全にヒムラーの信任を失った。1939年8月28日にヴィリグートは高齢や病を理由にSSから除隊させられた。ヴィリグートと完全に手を切りたがっていたヒムラーは、SS髑髏リングやSS長剣、SS短剣などの返却を求めたが、ヴィリグートは「最後の連帯の証しだ」といって自分の物にしてしまった。 この後勃発した第二次世界大戦中にはアウフキルヒェン(Aufkirchen)、1940年からゴスラー(Goslar)、1943年からヴェルター湖(Wörthersee)で暮らした。戦後はヴァルター湖近くの聖ヨハンの難民キャンプで生活したが、脳出血に苦しんだ。この後ザルツブルクへ戻る許可を得た。しかしすぐにヘッセン州のアロルゼンへと移住した。1946年1月3日にここで死去している。彼の墓石には「私たちの人生は無駄なおしゃべりのように過ぎ去る。(UNSER LEBEN GEHT DAHIN WIE EIN GESCHWÄTZ)」と刻まれている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カール・マリア・ヴィリグート」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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