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カール・ラデック : ミニ英和和英辞書
カール・ラデック[かー]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

カー : [かー]
 【名詞】 1. car 2. (n) car
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

カール・ラデック : ウィキペディア日本語版
カール・ラデック[かー]

カール・ベルンガールドヴィチ・ラデック〔カリ・ベルンガールドヴィチ・ラーヂェク〕ラテン文字表記の例:Karl Berngardovich Radek〕, 1885年10月31日 - 1939年5月19日)は、ソビエト連邦の政治家。本名カロル・ゾベルゾーン(Karol Sobelsohn)。
党員活動、ポーランド・リトアニア王国社会民主党 (SDKPiL)、ドイツ社会民主党(SPD)、ドイツ共産党(KPD)、コミンテルン、ドイツ共産主義労働党、ソビエト連邦共産党
== 経歴 ==
ポーランド領であったルヴフの「解放された」ユダヤ人の家庭に生まれる。最初に身につけた言葉はドイツ語だったらしいが、イディッシュ語ポーランド語ロシア語などを易々と使うようになる。"ラデック"という偽名は、好きだったステファン・ゼロムスキの小説の登場人物から取ったという。
14歳の頃から労働運動に関わりはじめ、最初はガリツィアで活動し、クラクフウィーンベルンで教育を受け、1904年ポーランド・リトアニア王国社会民主党(SDKPiL)に入り、1905年ロシア第一革命の時に逮捕され、1908年に亡命する。続く4年間はライプツィヒブレーメン社会民主党が出すドイツ語新聞の編集に従事する。ドイツ社会民主党では極左派として活動している。1914年第一次世界大戦勃発後は、一貫して戦争反対の立場をとり、オーストリアの軍隊に徴兵されるが脱走し、スイスで『スイス・プレス』紙に"パラベルム"のペンネームで痛烈な反戦論文を掲載する。このスイスでレーニンなどのボリシェヴィキたちと知り合うようになった。
1917年2月革命から10月革命の間に、ラデックはボリシェヴィキに入党し、ほとんどはストックホルムに滞在し、その陰謀の才を伸ばした。ボリシェヴィキの外務人民委員部に参加し、中欧関係を担当し、『イズベスチア』紙に“ヴィクトール”のペンネームで宣伝論文を連載し始めた。ドイツ軍とのブレスト・リトフスク講和を交渉するときにトロツキーに同行し、ドイツ帝国主義を攻撃しロシア革命を擁護したパンフレットを作成しドイツ兵に配布している。
ドイツとの休戦が成立するとボリシェヴィキの派遣代表者の一人としてベルリンへ向かったが、監視をくぐり抜けて目的地にたどり着けたのはラデックだけだった。そこで本名から取った"ソベルゾーン"という偽名で潜行を続けスパルタクス団と接触し、ためらうローザ・ルクセンブルクを論破してドイツ共産党の結成に踏み切らせ、1918年の末に開かれた創立大会に立ち会った。ドイツ官憲に逮捕され1919年末にロシアに送還された。ロシア共産党の中央委員、コミンテルン執行部書記となる。
フランス・ベルギー軍のルール占領に対するドイツの抵抗運動が左右を越えて起こり、抵抗運動の一員として活動したフライコールアルベルト・レオ・シュラゲターが、フランス憲兵隊により公開銃殺刑にされた時、「シュラゲターの死を無駄にするな」というスローガンの下に、右翼と左翼の連帯が「民族ボルシェヴィズム」路線(保守革命)として展開され、右翼の側はアルトゥール・メラー・ファン・デン・ブルック(第三帝国の提唱者で知られる)が、左翼の側はカール・ラデックが代表となる。しかし、1923年に、この民族ボルシェヴィズム路線でのドイツ革命失敗の責任者として失脚。1924年に中央委員の資格を失い、党中央に対する反対派としてトロツキーと提携する。
1925年モスクワ中山大学の学長という政治的に無害なポストに任命されるが、共産主義アカデミーの席上で当時議論の的となっていた「一国社会主義」の理論を笑いものとし、さらにスターリンブハーリンが進めていた中国への政策を批判した。そのため1927年の党大会で除名、シベリアへ追放された。
1928年、同じ反対派のイヴァール・スミルガエフゲニー・プレオブラジェンスキーとともに中央執行委員会に送った手紙の中で、ラデックは自分の誤りを認めトロツキー派脱退を宣言し、1929年の夏に復党を許された。1937年第2回モスクワ裁判に巻きこまれ、反革命陰謀のかどで10年の刑を受け、ヴェルフネウラリスクの強制収容所へ送られた。
翌1939年、別の囚人に殺害された。ニキータ・フルシチョフスターリン批判においては、NKVDの陰謀だと認定されている。1988年ブハーリンらとともに名誉回復。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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