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カ号観測機(かごうかんそくき)は、第二次世界大戦時に日本陸軍が開発した観測機である。オ号観測機ともいう。砲兵の弾着観測や、対潜哨戒に使用された。日本で実戦配備されたものとしては唯一のオートジャイロである。設計、製造は萱場製作所(現KYB)。 == 概要 == 1923年(大正12年)にスペインのフアン・デ・ラ・シエルバにより実用化されたオートジャイロは1930年代当時、世界各国で軍事利用が行われていた。アメリカ海軍では1931年(昭和6年)にの改良型をとして、空母ラングレーで発着艦実験を行い成功させ(史上初の艦載回転翼機。結果不採用)、遅れてアメリカ陸軍とアメリカ海兵隊が少数ながらシリーズを採用した。 さらにが、1934年(昭和9年)にスペイン海軍の水上機母艦デダロ、1935年(昭和10年)にはイギリス海軍の空母カレイジャス、イタリア海軍の重巡洋艦フィウメでの発着艦実験に成功していた。後にイギリスはオートジャイロをバトル・オブ・ブリテンでレーダーサイトの点検作業などに活用している。 日本でもこうした潮流に乗り遅れまいと、1932年(昭和7年)イギリスからが2機輸入され、内1機は海軍で研究用に、もう1機は朝日新聞社が購入した。翌1933年(昭和8年)には陸軍が学芸技術奨励寄付金でアメリカからを2機(愛国第81号と第82号)購入したが、この海軍のC.19と陸軍のK-3は事故で失われた。 1939年(昭和14年)8月陸軍航空本部はアメリカから、当時最新型のケレット KD-1Aを1機購入したが、これも1940年(昭和15年)2月に事故で中破した。すると陸軍技術本部が気球の替わりとなる弾着観測機として目をつけ、航空本部から破損機を譲り受け、同年11月に萱場製作所(現KYB)に修理を依頼した。その背景には前年のノモンハン事件において、日本陸軍砲兵の揚げた弾着観測用係留気球がソ連軍戦闘機に撃墜され、役目を果たせなかったという事由があった。 1941年(昭和16年)4月に修理の終わった試作機(KD-1A復元機、原型一号機)は、同年5月26日に玉川飛行場にて初飛行した。試験結果は良好で、同年5月、技術本部はこれを原型とした国産型2機(原型二号機と三号機)の製作を、萱場製作所(現KYB)と神戸製鋼所に依頼し、1943年(昭和18年)始めに完成した。国産型の胴体は萱場製作所製で、エンジンと駆動装置は神戸製鋼所製であった。完成した国産型は多摩川河畔での飛行試験で成功を収めた。 1942年(昭和17年)11月に国産型はカ号一型観測機(カ-1)として採用され、1943年(昭和18年)に60機分(予定)、1944年(昭和19年)に毎月20機分(予定)、の量産が発注された。 カ号をK-3とシェルヴァを基に萱場製作所が独自開発したとする説は誤りである。 本機は航空本部ではなく技術本部主導で開発された砲兵機材の為、キ番号が与えられていない。“カ号”の名前は、萱場製作所や観測機ではなく、回転翼の頭文字をとったものである。また、もう一つの呼び名の“オ号”(オ-1、オ-2)は、オートジャイロの頭文字に由来するという。これはソロモン群島要地奪回の作戦名である「カ号作戦」との混同を避けるため、1944年(昭和19年)以降に改称されたものである。本機のヴァリエーションは数種の改造試作型を含めオ-6まで存在する。 試作機(原型一号機)はジャコブスL-4MA-7 空冷星形7気筒エンジンを搭載したが、国産型(原型二号機と三号機)と一型ではアルグス As 10C 空冷倒立V型8気筒エンジン(神戸製鋼所で国産化)を搭載した。これはドイツのFw 186やFi 156の搭載エンジンと同じ物で、前方視界改善と空気抵抗減少を狙ったものだった。しかしアルグスエンジンの筒温過昇トラブルが多発し、一型の生産は約20機で打ち切られた。以後は試作機と同じジャコブスエンジン(神戸製鋼所で国産化)を搭載したカ号二型観測機(カ-2)へと量産は移行した。ジャコブスエンジン搭載型を試作機のみとする説は誤りである。 機体構造は、胴体、垂直尾翼、方向舵は鋼管骨組に羽布張り、水平尾翼は木製骨組に羽布張りで、昇降舵は無かった。水平尾翼は左右が逆キャンバー(反り)になっており、プロペラから発生するアンチトルクを相殺していた。鋼管桁に合板張りの3翅ローターを有していた。格納時にはローターを後方に折りたたむことができた。プロペラは木製固定ピッチ2翅であった。 生産は、機体は萱場製作所仙台工場、エンジンは神戸製鋼所大垣工場にて行われた。しかしエンジンやプロペラなど重要部品の供給の遅れから、生産は遅々として進まず、終戦までに計98機しか軍に納入できなかった。しかもその内、完成していた10数機は被爆によって破壊され、約30機はエンジンがついていない状態だった。そのため実用となったのは50機前後とされる。実戦配備されたのはその内の約30機、対潜哨戒機(後述)として使われたのはさらにその内の約20機であった。 これらの機体は戦局の変化から、当初予定された中国大陸での弾着観測任務にはほとんど使用されず、ごく一部がフィリピンに送られた(後述)他は、大半は後述の対潜哨戒任務に転用された。その際は前席の観測員席を改造して胴体下に小さなドラム缶のような60 kg爆雷1発(つまり人間1人分のペイロード)を懸吊して積載できるようにし、その重量分は観測員を降ろして確保し、後席の操縦士のみの単座機として運用された。この対潜哨戒機に改造されたカ号は、爆雷を積載していない時は通常の複座機として運用できた。その他、偵察、連絡任務にも使用されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カ号観測機」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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