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GAEA JAPAN(ガイア・ジャパン)は、日本の女子プロレス団体。クラッシュギャルズで一世を風靡した長与千種が中心となって1995年4月15日に旗揚げし、2005年4月10日をもって解散した。アスリート志向が強く他団体が推進していたアイドル路線は敷かず、特に女性ファンの支持の強い団体だった。解散時の運営はガイア(現在は芸能事務所)のスポーツプロモーション部門。団体が解散しているが、現在もデータベース、試合結果など記載された公式サイトが運営されている。 == 歴史 == 1995年4月15日、後楽園ホールで旗揚げ戦を行う。団体代表には杉山由果、統括に木村一廊(後に社長)が就任し、選手代表の長与千種とのトロイカ体制で発進した。団体発足当時は長与、KAORU(元全日本女子プロレス選手)、ボンバー光(元ジャパン女子プロレス選手)の3人しか選手経験がなく、他は1年掛けて育てた新人しかいない団体だった。しかし、新人しかいないという状況を逆手に取り、寮での合宿で徹底的にプロレスを教え込んだ上でデビューさせ、その新人らしからぬ試合展開に『脅威の新人』と呼ばれた(ただし、そのためにそれ以降の新人選手の印象が一部を除き薄くなってしまったという弊害も作ってしまった)。また、当時の女子プロレス興行は各団体年間100大会以上だったが、GAEAは試合数を月5大会程度に絞り、地方も含めすべてプロモータに売らず自主興行で賄った。 その後1996年には長与の元付き人だった北斗晶が電撃入団し業界を驚かせ、翌1997年には全日本女子プロレスから山田敏代も移籍。 1998年にはクラッシュギャルズの盟友ライオネス飛鳥がフリーのレスラーとして参戦。翌1999年にはライオネス飛鳥対長与千種の「クラッシュ対決」が10年ぶりに実現した。2000年5月の「旗揚げ5周年興行」で「新生クラッシュギャルズ」(正式名・クラッシュ2000)がスタートした。 2001年12月に一期生の里村明衣子がアジャ・コングを破りシングル王座を獲得。また育成の段階から長与、ライオネス飛鳥の2人でプロジェクトを実行した「クラッシュ・ジュニア」が始動、第1号として桜井亜矢がデビューした。結局この企画は桜井が半年で退団したため頓挫。他にも、うやむやな形で消滅した第2回プレミアムリーグ戦(2000年)や、「男子選手を一から育成する」と謳いながらカナダのインディー団体から選手を連れてきたことがバレて1回きりで終わった「ガイアボーイズ」(2003年)など、短命に終わった企画はいくつか存在する。 2002年2月3日、運営主体が事業再編によりガイア株式会社に変更。4月に北斗晶が引退を表明。一方で1月にアルシオンを脱退した浜田文子がフリーとして参戦。さらに7月7日には前日、全日本女子プロレスを退団した豊田真奈美がフリーとして参戦を表明。当時両団体は対立関係にあり、2日後の全日本女子の興行で、リングアナウンサーの今井良晴は「豊田選手はマスターズリーグへ行ったみたいです」と皮肉った。 その後も元JWP女子プロレス選手の輝優優、カルロス天野が入団。2003年にはヒールに転向したKAORUとフリーの尾崎魔弓が女性観客に暴行を振う事件が発生。この事件は東京スポーツの1面を飾ってしまった。 2004年10月に翌年4月での団体解散を表明。また11月には林ひとみ、12月には山田敏代が引退。2005年4月3日の横浜文化体育館をもってライオネス飛鳥が引退し、同時にクラッシュ2000を封印。4月10日後楽園ホール大会が最後の興行となった。また、同興行をもって長与千種と広田さくら(後に復帰)、新人の水村綾菜(後に仙女で水波綾として再デビュー)が引退した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「GAEA JAPAN」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Gaea Japan 」があります。 スポンサード リンク
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