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ガザラの戦い(ガザラのたたかい,)は、 第二次世界大戦中の北アフリカ戦線におけるリビアのトブルクをめぐり1942年5月26日から6月21日にかけて枢軸国軍と連合国軍との間で行われた戦闘である。 枢軸国軍の戦力はアフリカ装甲軍でドイツ軍とイタリア軍の部隊により構成され、砂漠のキツネと称されることとなった当時上級大将のエルヴィン・ロンメルが指揮をとった。対する連合国軍の戦力は、イギリス及びイギリス連邦諸国軍(以下「イギリス軍」と記す。)を中心とする中東方面軍 (en) 総司令官クルード・オーキンレック大将の指揮下にニール・リッチー中将のイギリス第8軍(en)で、この双方による戦闘であった。ロンメルは連合国軍の築いたガザラ(en) から南方へビル・ハケイムまで伸びる防衛線正面への偽装攻撃を行いながら、装甲部隊をその南方へ向かって防衛線を迂回させ、その背後のイギリス軍装甲部隊を攻撃するために進出した〔カレル (1998)、p.213-215〕。この攻撃は成功したかに見えたが、連合国軍の「ガザラ・ライン」の南端にあって自由フランス軍の頑強な抵抗により堅く守られたビル・ハケイムのために物資の補給がままならなくなり、ロンメルの戦車部隊は燃料と弾薬が欠乏し、かえって不利な立場に置かれることになった。しかしながら、リッチーの第8軍はこの状況への対応が遅れ、ロンメルは「ガザラ・ライン」の中央、ビル・ハケイムの北方に補給路を開くため、西へ向かい戦力を集中して攻撃を加えた。戦闘は戦車を多く犠牲にしながらも枢軸国軍の勝利に終わった。けれども、その後の戦いにおいて重要な役割を果たすべき機甲部隊が損耗してしまい、エジプトへ退却した第8軍に決定的な打撃を与えることができなかった。このため、ロンメルの追撃は、エル・アラメイン手前で停止し、その後第一次エル・アラメインの戦いが始まることとなった。 == 背景 == === エル・アゲイラからのロンメルの再度の進攻 === 1941年末のクルセーダー作戦の勝利に続き、イギリス第8軍は枢軸国軍をキレナイカから駆逐し、ロンメルが防衛拠点としたエル・アゲイラ (en) まで追いつめた〔ムーアヘッド (1977)、pp.187-188〕。しかしながら、を超えた進攻はイギリス軍の物資補給を困難にし、1942年1月にはさらに西方のトリポリタニアへの進攻に備え、前線の兵士を間引いて通信線の構築や物資の臨時集積場での作業に従事させる状況だった。一方、ロンメルは兵と戦車の増援を受けていて、1月21日には3縦隊の強力な装甲偵察部隊を送り出した。前線でイギリス軍の布陣に手薄な個所を発見し、すぐに偵察を攻撃に切り替えた。1月28日にはベンガジを奪還し、2月3日にはトミミ (en) に到達して、地中海岸の要塞化された港湾都市トブルクに圧力をかけた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ガザラの戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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