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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
アブー・ハーミド・ムハンマド・イブン・ムハンマド・ガザーリー(、、1058年 - 1111年12月18日)はペルシアのイスラームの神学者、神秘主義者(スーフィー)。通常名前の最後の部分を取ってガザーリーと呼ばれるが〔青柳『ガザーリー』、1頁〕、研究者の中にはガッザーリー( الغزّالي al-Ghazzālī)と発音するべきだとする意見もある〔〔『誤りから救うもの』(中村訳)、127頁〕。ヨーロッパではラテン語のアルガゼル(Algazer)の名前で知られ、長らく哲学者と見なされていた。 「ムハンマド以後に生まれた最大のイスラム教徒」として敬意を集め〔ヴァーダリー「ガザーリー」『世界伝記大事典 世界編』3巻、38-39頁〕、スンナ派がイスラーム世界の中で多数派としての地位を確立する過程の中で最も功績のあった人物の一人に数えられる〔松本「ガザーリー, アブー・ハーミド」『岩波イスラーム辞典』、255-256頁〕〔青柳『ガザーリー』、3頁〕。ガザーリーはスンナ派と対立するシーア派への反論、イスラーム哲学への批判、スーフィズム(神秘主義)への接近を通して、スンナ派のイスラーム諸学を形作った。ガザーリーは存命中に高い名声を得ていたが、没後のイスラーム世界でも思想的権威と見なされ、彼の理論はファトワー(法的回答)を発する多くのウラマー(イスラーム世界の知識人)によって、コーラン(クルアーン)やハディース(預言者ムハンマドの言行録)とともに参照されている〔青柳『ガザーリー』、1-2頁〕。弟のアフマド・ガザーリーもスーフィズムの思想家として知られており、彼の神秘主義思想の構築には弟の影響があったと考えられている〔。 == 生涯 == 1058年にガザーリーはイランのホラーサーン地方のトゥース近郊で誕生する。ガザーリーの父親は自分で紡いだ羊毛を売る商人だと言われているが、父親の職業が事実であるかは疑問視されており、また史料の中に母親について記しているものはない〔『誤りから救うもの』(中村訳)、127-128頁〕。ガザーリーは幼少期に父親を亡くし、兄弟とともに父親の友人のスーフィーに養育された。ガザーリーには弟のアフマドのほかに数人の姉妹がいたといわれているが、それらの姉妹について明らかになっている点はない〔『誤りから救うもの』(中村訳)、128頁〕。父の遺産によってガザーリーは学業に専念することができ、父の友人の勧めに従ってマドラサ(神学校)に入学した。最初トゥースで教育を受け、カスピ海沿岸のジュルジャーンに移り、アブー・ナスル・イスマーイーリーに師事した。ジュルジャーンから帰郷する途上、ガザーリーは盗賊にイスマーイーリーの教えを記したノートを奪われ、盗賊にノートを返すよう哀願した。しかし、盗賊の頭領の「ノートを奪ったためにお前の知識が失われ、何の学問も残らなかったのならば、どうしてお前はその学問を知っていると言えるのか」という言葉に、「神の言葉」を授かったかのような衝撃を受ける〔『誤りから救うもの』(中村訳)、129頁〕。トゥースに帰ったガザーリーはノートに書かれた師の考えの理解と記憶に3年の時間を費やし、ユースフ・ナッサージュの元でスーフィーの修行を行った 1077年にガザーリーはニーシャープールに移り、ニザーミーヤ学院で当時の大学者に師事し、シャーフィイー学派の法学とアシュアリー学派の神学を修めた〔青柳『ガザーリー』、4,26頁〕。ニザーミーヤ学院で才能を発揮したガザーリーはジュワイニーの代講を務め、学生の指導にあたるようになるが、過度の研究のために健康を害したこともあった。ニーシャープール時代のガザーリーはスーフィーのファールマディーからも指導を受けていたが、1084年にファールマディーが没すると一時的にスーフィズムから遠ざかる〔青柳『ガザーリー』、4-5頁〕。1085年にジュワイニーが没した後、ガザーリーは学芸の保護者であったセルジューク朝の宰相ニザームルムルクの庇護を受け、エスファハーン(イスファハーン)の宮廷に出仕した〔青柳『ガザーリー』、5頁〕。 やがてガザーリーの学才はニザームルムルクにも認められ、1091年にバグダードのニザーミーヤ学院の教授に任命される〔。300人の学生を指導する傍ら、法学・神学の講義や著述活動の合間に哲学、シーア派の思想を研究し、これらの思想の批判を書き上げた〔青柳『ガザーリー』、27頁〕。ガザーリーは信仰の確信を得るために神学、哲学、シーア派を研究したが心は満たされず、さらにスーフィズムへのアプローチを行った〔青柳『ガザーリー』、48頁〕。、ムハースィビー、、、ら前の時代に生まれたスーフィーの著書を読んで知識を得て、修行の実践を決意する〔。1095年、世俗への執着と来世への羨望に葛藤するガザーリーはニザーミーヤ学院での講義中に「一語も発することができない」状態に陥り、食物や飲み物を口にすることができなくなる〔『哲学者の意図』(黒田訳・解説)、347頁〕。スーフィズムによって信仰の確信を得られると考えたガザーリーは内からの声に促され、葛藤の末に職を辞して地位と名誉を捨て、1095年11月に一人の修行者としてメッカ(マッカ)巡礼に旅立った〔青柳『ガザーリー』、48-51頁〕。 ガザーリーはおよそ2年の間シリア、パレスチナ各地を巡り歩き、1096年11月から12月にかけてメッカ巡礼を行った〔青柳『ガザーリー』、51頁〕。ダマスカスを訪れたガザーリーはウマイヤド・モスクのミナレットに閉じこもり、禁欲と修行のために他人を近づけなかった。エルサレムでも一人瞑想に耽り、その合間に『エルサレム書簡』を著してイスラームの基本教義を解説した〔『誤りから救うもの』(中村訳)、133頁〕。放浪中のガザーリーは俗世間と完全に接触を絶った状態に身を置いておらず、陳情、就職の斡旋のために政治指導者に宛てたペルシア語の書簡が残されている〔『誤りから救うもの』(中村訳)、135頁〕。メッカ巡礼を終えたガザーリーは子供たちの要請を受けて1099年に生地のトゥースに戻る。トゥースに戻ったガザーリーはスーフィーの道場を設立し、若者たちとともにスーフィーとしての生活を送った。 ニザームルムルクの息子である宰相ファフル・アルムルクの要請を受けて、1106年にガザーリーは再びニーシャープールのニザーミーヤ学院の教壇に立つ。復職の経緯について、ガザーリーは隠遁生活への憧れと不信仰が蔓延る現状への憂いの間で葛藤し、親しい人々の勧めを受け、預言者ムハンマドの「神は世紀の始まりごとに共同体の中に改革者を派遣する」といった旨のハディースに突き動かされたことを述懐している〔『誤りから救うもの』(中村訳)、136-137頁〕。復職した後のガザーリーは講義内容をまとめた法学書『法源学の精髄』、自伝『誤りから救うもの』を著している。1107年/08年に勉学のために東方を訪れたマグリブの思想家イブン・トゥーマルトがガザーリーと会い、ガザーリーとの出会いを契機としてムワッヒド運動を開始した伝承が残るが、史実性は否定されている〔『誤りから救うもの』(中村訳)、180頁〕。1110年にガザーリーは公職から退いてトゥースに帰郷し、翌1111年12月18日にこの地で没した〔青柳『ガザーリー』、52頁〕。 トゥース旧市街の城壁付近では、ガザーリーの墓と推定される遺構が発掘されている〔。イラン・イスラム共和国はシーア派を国教とするため、近くに存在する詩人フェルドウスィーの墓と比べてガザーリーの墓は質素な作りになっている〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ガザーリー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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