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ガブリエル・ゲヴレキアン(, 1892年11月21日 - 1970年10月29日)は、アルメニア系イラン人の建築家、庭園アーキテクト、都市計画家、建築ジャーナリスト。ウィーンで建築を学び、両世界大戦の戦間期はウィーンやパリなどで活動し、近代建築国際会議設立にも参画。1925年パリ万国博覧会で出展制作した「水と光の庭園」は、秀逸な作品として今日でも知られる。1933年にパフラヴィー朝政府の招聘に応じてイランへ戻り、同国首都テヘランの都市計画に携わる。戦後はアメリカ合衆国に渡り、後身の育成に当たった。 == 生涯 == 1892年に(1900年としている文献もある)、当時オスマン帝国領だったイスタンブルにアルメニア人の両親のもとに生まれる。父は宝石の専門家。その後、家族とともにテヘラーンへ移住し、そこで育った。1910年に姉リディアとともにウィーンに渡り、建築家のおじアレックス・ガルースティアンの下で過ごす。1915年からウィーン応用美術大学にて、とヨーゼフ・ホフマンに建築を学ぶ。1919年に卒業証書を取得後、ホフマンとストルナードの下で1920年から3年間実務を経験する。 1922年にパリに渡り、最初はと、その後1926年まで、いとことともにロベール・マレ=ステヴァンスのもとでパートナーを務め、の集合住宅や同時期のパリやコートダジュールの別荘の設計を一緒に手がける。また、ル・コルビュジエ、、ジークフリート・ギーディオンらの活動に参画する。 1926年に独立し、パリで建築設計の他、ガーデンデザイナーやライターなど建築ジャーナル方面での活動も行い、1927年のCIAM創立に参画する。また、ル・コルビュジェによってCIAMの事務総長に任命される。事務総長は1928年から1932年まで務める。 2年後、フランスの有名な建築ジャーナル「L'architecture d'aujourd'hui」の創立メンバーとなる。 1932年、ヨーゼフ・フランツからウィーン工作連盟が行う住宅供給、住宅地建設の仕事を誘われ、ウィーンに渡りこの仕事に専念する。 その後イラン政府に招聘され、1933年から1937年までテヘランに渡り、地元の主任都市計画家と建築家として任命され、短期間に多くの政府機関や公共の建物を設計し、同時にイランに国際スタイルのモダニズム建築をもたらし、同国の近代化に重要な役割を果たす。 1937年から1940年まではロンドンで活動する。ロンドンでのプロジェクトは第二次世界大戦によって実現されなかった。 1940年にパリへ戻り、ザールブリュッケンのアカデミーで教鞭を執るかたわら、プレハブ住宅の開発に取り組む。ナチス・ドイツやヴィシー政権への協力を避けるため、建築家としての活動を中断する。 終戦以降、地元の建築学校ジョルジュ=アンリ Pingusson で教え続けながら、ザールブリュッケンの戦災復興に取り組む。 1948年からは、米国に戦争中に移住していたウィーン時代の仲間からの誘いで渡米し、アラバマ工科大学に就任し都市の研究に取り組む。1949年から1969年までイリノイ大学教授。1953年、ハンス・フェッターの招待でザルツブルクのサマーアカデミーで教鞭を執る。1955年にアメリカ国籍取得、1969年引退。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ガブリエル・ゲヴレキアン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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