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アエリア・ガッラ・プラキディア(, 390年頃 - 450年11月27日)は、ローマ皇帝テオドシウス1世(大帝)とその後妻ガッラ(ウァレンティニアヌス1世の娘)の娘。アルカディウス帝とホノリウス帝の異母妹である。 == 生涯 == プラキディアは、テオドシウスの将でヴァンダル人のスティリコとその妻セレナのもとで育った。スティリコは西ローマ帝国で事実上の軍のトップとなっており、彼自身によれば東ローマ帝国でもそうであった。408年、スティリコはホノリウス帝に処刑されたが、プラキディアの同意があったか、少なくとも異論なしだったとされる。スティリコの死により、非イタリア人のローマの将兵が西ゴートのアラリック1世の陣営に移り、アラリックの軍はすぐさまイタリアを侵略した。 409年か410年、アラリックによるローマ攻囲の間に、プラキディアは西ゴートの捕虜となった。西ゴート軍によるローマ略奪の間(410年8月24日からの3日間)もプラキディアは連行され、イタリア中をさまよったが、アラリックが死ぬとガリアに移された。 414年1月、プラキディアはアラリックの弟で、その死後に西ゴートの王となったアタウルフとナルボンヌで結婚した。歴史家のヨルダネスは、二人は411年にフォルリで結婚したとしている。ヨルダヌスによる日付は、彼女とアタウルフが事実上の結婚を済ませたときであると思われる。プラキディアが生んだ息子はテオドシウスと名付けられたが、幼児のうちに死にバルセロナに埋葬された。のちにその遺体はローマのサン・ピエトロ大聖堂にある皇帝の霊廟に移された。アタウルフは自分が殺害したゴート人の首領の部下に襲われて重傷を負い、415年の夏、いまわの際にプラキディアをローマ人のもとへ返すよう命じた。416年、ゴート王ワリアはローマ人と条約を結んで支持を得る見返りに、彼女を返還した。 417年1月、兄ホノリウスに強制され、プラキディアは将軍コンスタンティウス(コンスタンティウス3世)と結婚した。2人の間にはウァレンティニアヌス3世となる息子と、娘ユスタ・グラタ・ホノリアが生まれた。421年、コンスタンティウスは短期間皇帝となるが、すぐに死去した。今度は兄ホノリウス自身が求婚したが、彼女は子供達を連れてコンスタンティノポリスに逃れた。ホノリウスが423年に死ぬと、ヨハンネスが皇帝を名乗り、フラウィウス・アエティウスと同盟を組むが鎮圧され、425年、プラキディアの息子がウァレンティニアヌス3世として帝位に就いた。 彼女は、最初は息子の名の下に統治を行おうとしたが、彼女に忠誠を誓う将軍が死んだりアエティウスになびいたりするにつれ、帝国の政治は彼の手に落ち、アエティウスは貴族となった。プラキディアは見かけはアエティウスと友好関係を保った。アエティウスはのちに西ローマ帝国をアッティラ率いるフン族から防衛する中心となる。アッティラは狙いをコンスタンティノポリスからイタリアに向けたが、それはプラキディアの娘ホノリアからの愚かな手紙のためであった。450年の春、ホノリアはアッティラに、プラキディアを含む皇族が元老院議員との結婚を強制するので、自分を救い出してほしいと送ったのである。プラキディアの最後の行動は、息子のウァレンティニアヌス3世に、ホノリアを殺すよりも追放するよう説得したことである。450年11月にプラキディアは死去し、451年から453年のアッティラによるイタリア略奪を見ることはなかった。アッティラはホノリアの手紙を「合法的な」要請としたが、略奪はゴート人によるものよりも残虐なものであった。 プラキディアは一生を通じて敬虔なカトリック教徒で、後年にはラヴェンナでいくつかの教会に寄進を行った。ラヴェンナのガッラ・プラキディア廟堂は、1996年にユネスコによって世界遺産に登録されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ガッラ・プラキディア」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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