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ガルシア・ホフレ・デ・ロアイサ : ミニ英和和英辞書
ガルシア・ホフレ・デ・ロアイサ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ガルシア・ホフレ・デ・ロアイサ : ウィキペディア日本語版
ガルシア・ホフレ・デ・ロアイサ
フランシスコ・ホセ・ガルシア・ホフレ・デ・ロアイサFrancisco José García Jofre de Loaísa, 1490年 - 1526年)は、スペイン貴族。スペイン王カルロス1世の命で、1525年香料諸島の植民地化のため、大西洋太平洋を渡る西回り航路の探検を行った。これはロアイサ遠征隊Loaisa expedition)として知られる。植民地化後の統治や貿易に必要な役人などを同行させたこの遠征隊は、450名以上もの規模となった。
これは1520年に発見されたマゼラン海峡を利用するスペイン初の試みだった。
== 詳細 ==
遠征隊は7隻の船で構成された。しかし、船の大きさや耐久性、速度などの性能はまったくばらばらだった。このことは決定的な遅れを多発させ、明らかに大間違いだった。筆頭水先案内人はフアン・セバスティアン・エルカーノで、彼は1519年1521年マゼラン遠征隊に参加し香料諸島に行ったことがあり、1522年には喜望峰回りでヨーロッパに帰還した、史上初の世界周航達成者であった。
艦隊は1525年7月24日ア・コルーニャを出発し、1526年1月にはパタゴニア沖に至った。この時点で2隻の船が艦隊からはぐれていた。その後数週間はまったく悪夢のようだった。艦隊は何とか集合することができたが、マゼラン海峡への突入時、強風でちりぢりになり、2隻が難破、別の1隻は大西洋上で投錨し、遠征隊から離脱してしまった。残り4隻になった艦隊はぼろぼろになりながら5月には太平洋中央部に至ったが、強風のためまたしてもちりぢりになってしまい、もはや再び集合することはできなかった。
その1隻、キャラベル船のサン・レスメス号は、知られていないが、数奇な運命をたどった(フランシスコ・デ・オセスを参照)。小型船サンティアゴ号は北に進路をとり、10,000kmもの航海の後、1526年7月、メキシコ太平洋岸にたどり着いた。これはヨーロッパ人最初の北米西海岸航海となった。サンタ・マリア・デル・パラル号は太平洋を渡りセレベス島に至った。船は沈み、生存者は現地人に殺されるか奴隷となった。うち4名は1528年、メキシコから来た別のスペイン人遠征隊によって助け出された。
旗艦サンタ・マリア・デ・ラ・ビクトリア号は、艦隊の中でただ1隻、香料諸島にたどり着くことができた。1526年9月のことである。その前に、彼らはマゼランがそうしたように、グアムに立ち寄っていた。驚くべきことに、そこでスペイン人を発見した。マゼランの艦隊から脱走したゴンサロ・デ・ビゴであった。彼は太平洋史で最初のヨーロッパ人漂流者だった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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