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ガレノス(, 129年頃 - 200年頃)は、ローマ帝国時代のギリシアの医学者。臨床医としての経験と多くの解剖によって体系的な医学を確立し、古代における医学の集大成をなした。彼の学説はその後ルネサンスまでの1500年以上にわたり、ヨーロッパの医学およびイスラームの医学において支配的なものとなった〔「医学の歴史」p87 ルチャーノ・ステルペローネ著 小川熙訳 原書房 2009年11月30日第1刷〕。なお、ラテン語ではクラウディウス・ガレヌス (Claudius Galenus) と呼ばれるが、「クラウディウス」に対応する名 (forename) はギリシャ語文献には見出されず、ルネサンス期以降の文献において見られるようになったものである。 == 生涯 == ガレノスは、裕福な建築家アエウリウス・ニコンの息子として、ペルガモンで生まれた。彼の関心は、農業、建築、天文学、占星術、哲学など多岐にわたっていたが、最終的には医学に専念した。 20歳までには、ガレノスは地方の神殿で医学の神アスクレーピオスに仕えるもの (therapeutes) として4年間を過ごした。148年もしくは149年に父が歿した後、彼はスミルナ、コリント、アレキサンドリアなどで12年以上の研究を積んだ。157年にペルガモンに戻ったときには、剣闘士の学校で3年ないし4年間、外科医として勤務した。この時期に、事故・外傷の手当てに関する多くの経験を蓄積した。ガレノスは後に外傷を「体内への窓」と見なした。 ガレノスは目や脳を対象とするものも含めて、技巧に頼った無謀な手術も多く行った。それらは、その後2000年近くにわたり行われることはなくなった。例えば、白内障の手術では、水晶体の内側にまで長い針状の器具を突き通し、ゆっくりと引き抜いた。これは、わずかでもずれれば永遠に失明することになる方法である。もちろん、ガレノスは、他の手法に関しては現代の医療の標準となるものも打ち立てている。 162年にはガレノスはローマに移り、執筆活動や講義、公開解剖などを行った。彼は名医としての評判を得て、顧客にも恵まれた。その中にはコンスルのフラウィウス・ボエティウスもおり、彼によってガレノスは宮廷に招かれた。そこで彼は皇帝マルクス・アウレリウス・アントニウスの典医となり、のちにはルキウス・ウェルス、コンモドゥスなども診た。当時ローマ帝国は北東国境をなしていたドナウ川周辺でマルコマンニ戦争を戦っていたが、ガレノスもマルクス・アウレリウスに従って従軍し、軍医を務めた。 ガレノスは主にギリシャ語で語ったという。当時は、医学分野ではラテン語よりもギリシャ語の方が上位と見なされていたのである。しかし、どの学派にも属していなかった彼は他の医師たちと対立し、166年から169年の間にペルガモンに戻ったとされているが、1年後にはマルクス・アウレリウス・アントニウス帝に呼び出されて再び宮廷に仕えた。マルクス・アウレリウスは長男が死亡したばかりであり、後継ぎとなった息子のコンモドゥスの健康を維持させるためにガレノスをコンモドゥスの侍医とした。コンモドゥスの治世中侍医を務め続け、さらにその後の混乱を勝ち残ったセプティミウス・セウェルス帝の侍医にもなった。192年ごろ、大火が起きてガレノスの著作のかなりが焼失した。ガレノスは199年ごろに没した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ガレノス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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