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ガヴアナー(発音はガヴァナー)は1930年代半ばに活躍した日本の競走馬である。1935年の第4回東京優駿大競走(日本ダービー)に優勝したが、その約1か月後に調教中の事故が原因で安楽死となった。主戦騎手は井川為男。全兄に第2回東京優駿大競走の優勝馬カブトヤマ、全弟に第7回帝室御賞典の優勝馬ロッキーモアーがいる。 == 経歴 == 母は帝室御賞典優勝馬アストラル。父シアンモアは小岩井農場が擁した戦前の大種牡馬で、カブトヤマ、フレーモアと連続して東京優駿大競走勝ち馬を送り出していた。 1935年3月にデビューすると2連勝を挙げ、東京優駿大競走に出走した。1番人気は3歳(旧4歳)にして帝室御賞典に優勝していた牝馬クレオパトラトマスだったが、同馬は不良馬場の中を9着に沈んだ。一方のガヴアナーは2着アカイシダケに6馬身差、レコードタイムで優勝〔「不良馬場で施行されたダービー」のレコードタイム。当時は馬場状態に応じてレコードタイムも別々に扱われていた。なお、第4回までの最速はカブトヤマが記録した2分41秒0(稍重)。〕。全兄カブトヤマと共に史上初の兄弟ダービー馬となった。 「どこまで連勝を伸ばすか」とその前途を大いに期待されたが、競走13日後の5月15日、ガヴァナーは調教中に左後脚の種子骨を骨折。治療の甲斐なく、同月28日に安楽死の処置が執られた。遺体は東京競馬場近くの馬霊塔に葬られ、「三戦三勝」と刻まれた石碑が建てられている。 ガヴァナーの死に際して、担当馬手(厩務員)であった茅島高平の悲嘆が殊のほか深く、その様子を見かねた調教師の布施季三がヘルムートという馬を新たに担当させて励ました。しかし数日後の朝、雨の中で茅島が雨合羽を着ようとした際、驚いたヘルムートがその腹部を蹴り、腸破裂で病院に運ばれた茅島は間もなく死去した。ガヴァナー、茅島と続いた死に、厩舎では「ガヴァナーが呼び寄せたのだ」と嘆いたという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ガヴアナー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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