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ガヴリール・デルジャーヴィン : ミニ英和和英辞書
ガヴリール・デルジャーヴィン[じゃー]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ジャー : [じゃー]
 【名詞】 1. jar 2. (n) jar

ガヴリール・デルジャーヴィン ( リダイレクト:ガヴリーラ・デルジャーヴィン ) : ウィキペディア日本語版
ガヴリーラ・デルジャーヴィン[じゃー]

ガヴリーラ・ロマーノヴィチ・デルジャーヴィン(、1743年7月14日 - 1816年7月20日)とは、啓蒙時代のロシアの詩人。古典主義の代表的存在であり、それを大きく推し進めた人物でもある。プーシキン以前では最大の詩人とされる。
==概要==
デルジャーヴィンはムルザ(タタール貴族)を祖にもつ。カザンに生まれ、そこで幼年時代をすごした。父は大尉だったロマン・ニコラエヴィッチであるが、デルジャーヴィンが若い頃になくなっている。1762年からサンクトペテルブルクで、プレオブラジェンスキー連隊の兵卒となった。1772年には士官へ。1776年から1777年にはプガチョフの乱の鎮圧にも参加した。
文学界や一般社会で名声が高まったのは、1782年に頌歌「フェリーツァ」を書いてからである。これはエカチェリーナ2世を褒めたたえるものだった(女帝は喜んだが、実際にはこれは風刺であった)。デルジャーヴィンはオロネツの県令に抜擢され、1785年からはタンボフの知事になった。どちらでもデルジャーヴィンは秩序を重んじようとし、汚職との戦いは地方のエリートたちとの衝突を招いた。1789年、彼は首都に戻り、いくつもの要職を歴任していく。これらの時代を通じ、デルジャーヴィンが文壇に停滞をもたらすことはなかった。長詩「神」(1784年)など、いくつもの作品を書いている。
1803年に退役し、サンクトペテルブルクやノヴゴロドのズヴァンカにある自分の領地などで暮らす。晩年は作家活動に専念するようになった。
デルジャーヴィンは1816年にズヴァンカの自宅でなくなった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ガヴリーラ・デルジャーヴィン」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Gavrila Derzhavin 」があります。




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