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ガールスクール : ミニ英和和英辞書
ガールスクール[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ガールスクール : ウィキペディア日本語版
ガールスクール[ちょうおん]

ガールスクールGirlschool)はイギリスロックバンド1980年代NWOBHMムーヴメントに乗って頭角を現し、その後もメンバー・チェンジを繰り返しながら現在も活躍中。その全活動期間を通じて女性のみで編成され、30年以上のキャリアを誇る史上最長寿の女性ロック・バンドである〔 〕〔 〕。
==キャリア==

=== 1975 - 1982 誕生~ブレイク ===

1975年、サウス・ロンドンのトゥーティングで、級友のキム・マコーリフリズムギターボーカル)とダイナ・"エニッド"・ウィリアムズベース、ボーカル)が結成したペインテッド・レディ(Painted Lady)がその母体。一度は解散するものの、マコーリフとウィリアムズはそれぞれの仕事(マコーリフは銀行勤め、ウィリアムズはパン屋)から脱却し、音楽の道を進むことを諦めなかった。
そして、オーディションによりケリー・ジョンソンリードギター)、デニス・デュフォートドラムス)を獲得〔 〕。新ラインナップのバンドは名前をウイングスの大ヒット曲「夢の旅人」のB面に収められた曲のタイトルから取った〔 〕ガールスクール(Girlschool)に改め、早速フランスアイルランド、およびイギリス国内の小規模な会場を精力的にツアーする。
1978年12月、ガールスクールはデビュー・シングル''Take It All Away''をインディーズ・レーベルのシティ・レコーズからリリース。この曲はアンダーグラウンドシーンで話題となり.〔 〕、この噂を耳にしたモーターヘッドレミーにスカウトされ、翌年春からスタートするモーターヘッドのオーヴァーキル・ツアーにサポート・アクトとして起用される〔Kilmister, Ian and Garza, Janiss ''White Line Fever'' (2002) – Simon & Schuster pp. 126-128 ISBN 0-684-85868-1.〕(この時から、モーターヘッドとガールスクールの長い協力関係がスタートした)。
オーヴァーキル・ツアーに続いてバッジーのサポート・アクトなどを務めたのち、モーターヘッドのマネージャー、ダグ・スミスがガールスクールのマネージャーに就任。スミスの尽力により、当時モーターヘッド、ユーライア・ヒープジューシー・ルーシーらを擁していたブロンズ・レコードの契約を勝ち取る。
ヴィック・メイルのプロデュースの下に制作されたデビュー・アルバム『デモリッション』(''Demolition'') は1980年6月にリリースされ、7月にUKアルバム・チャートの28位まで上昇した。
折しもNWOBHMの大ブームの中、ジューダス・プリーストサクソンデフ・レパードアイアン・メイデン、モーターヘッドら錚々たる顔ぶれがUKチャートを席巻し、ヨーロッパ全土をツアーしていた。ガールスクールも時にはヘッドライナーとして、時にはレーベルメイトであるモーターヘッドやユーライア・ヒープのサポートアクトとして、イギリス、ヨーロッパへのツアーに明け暮れた。
1980年8月20日、ガールスクールとモーターヘッドはノッティンガムのシアター・ロイヤルで行ったライブを収録し、この模様は翌1981年4月4日にATVステーションで放送された。この頃には、ガールズ・バンドの成功例として、雑誌、ラジオ、テレビに頻繁に登場するようになり、その 余勢を駆って11月にシングル「イェー、ライト」(''Yeah, Right'')をリリースした。
1980年12月、『デモリッション』に続くセカンド・アルバムの制作中、プロデューサーのヴィック・メイルからのアドバイスによりモーターヘッドとの共同レコーディングを行うことになり、そこからEP「セント・ヴァレンタインデー・マサカー」(en:''St. Valentine's Day Massacre'') が誕生した〔。このEPには、首を負傷していたモータヘッドのドラマー、フィルシー・"アニマル"・テイラーを除くガールスクールとモーターヘッドのメンバー全員で演奏した「プリーズ・ドント・タッチ」(''Please Don't Touch'')(オリジナルはジョニー・キッド&ザ・パイレーツ)のほか、モーターヘッドがカバーしたガールスクールの「エマージェンシー」(''Emergency'')、ガールスクールがカバーしたモーターヘッドの「ボマー」(''Bomber'') が収録された。
1981年2月19日には、ガールスクール、モーターヘッド全員揃い踏みでBBCトップ・オブ・ザ・ポップスに出演、ヘッドガール (Headgirl) 名義で全員で「プリーズ・ドント・タッチ」を演奏した〔 〕。EPは1981年2月にUKチャートの5位まで上昇〔 〕、同年暮れにはシルヴァー・ディスクを獲得し、両バンドにとってそれまでで最高のセールスを記録した。
1981年4月、アルバム『ヒット・アンド・ラン』(''Hit and Run'') をリリース。シングル・カットされたタイトル・トラックとともにイギリスでヒットし、アルバムは5位まで上昇した。ニュージーランドカナダでもチャート・インし〔 〕〔 〕、ゴールド・ディスクを獲得した〔 〕。同年レディング・フェスティバルに出演〔 〕。
しかし、1982年3月の『ワイルド・ライフ』(''Wild Life'')リリース後、ハードなスケジュールに疲れたベースのエニッド・ウィリアムズが脱退する。レミーの推薦により、ジレン・"ジル"・ウェストンが後任に抜擢された。
1982年6月、サード・アルバム『スクリーミング・ブルー・マーダー』(''Screaming Blue Murder'')をワールドワイドでリリース(プロデュースはナイジェル・グレイ)するも、積極的なプロモーションにもかかわらずUKチャートでは27位に終わった。しかしライブの評価は相変わらず高く、アイアン・メイデン、スコーピオンズらのサポート・アクトとして初めてのアメリカ・スタジアム・ツアーも敢行した。ジューダス・プリースト、デフ・レパードといったNWOBHM勢のアメリカにおける人気を目の当たりにし、彼女たちもアメリカ市場への進出を切望するようになる〔 〕。'Take It All Away''をインディーズ・レーベルのシティ・レコーズからリリース。この曲はアンダーグラウンドシーンで話題となり.〔 〕、この噂を耳にしたモーターヘッドレミーにスカウトされ、翌年春からスタートするモーターヘッドのオーヴァーキル・ツアーにサポート・アクトとして起用される〔Kilmister, Ian and Garza, Janiss ''White Line Fever'' (2002) – Simon & Schuster pp. 126-128 ISBN 0-684-85868-1.〕(この時から、モーターヘッドとガールスクールの長い協力関係がスタートした)。
オーヴァーキル・ツアーに続いてバッジーのサポート・アクトなどを務めたのち、モーターヘッドのマネージャー、ダグ・スミスがガールスクールのマネージャーに就任。スミスの尽力により、当時モーターヘッド、ユーライア・ヒープジューシー・ルーシーらを擁していたブロンズ・レコードの契約を勝ち取る。
ヴィック・メイルのプロデュースの下に制作されたデビュー・アルバム『デモリッション』(''Demolition'') は1980年6月にリリースされ、7月にUKアルバム・チャートの28位まで上昇した。
折しもNWOBHMの大ブームの中、ジューダス・プリーストサクソンデフ・レパードアイアン・メイデン、モーターヘッドら錚々たる顔ぶれがUKチャートを席巻し、ヨーロッパ全土をツアーしていた。ガールスクールも時にはヘッドライナーとして、時にはレーベルメイトであるモーターヘッドやユーライア・ヒープのサポートアクトとして、イギリス、ヨーロッパへのツアーに明け暮れた。
1980年8月20日、ガールスクールとモーターヘッドはノッティンガムのシアター・ロイヤルで行ったライブを収録し、この模様は翌1981年4月4日にATVステーションで放送された。この頃には、ガールズ・バンドの成功例として、雑誌、ラジオ、テレビに頻繁に登場するようになり、その 余勢を駆って11月にシングル「イェー、ライト」(''Yeah, Right'')をリリースした。
1980年12月、『デモリッション』に続くセカンド・アルバムの制作中、プロデューサーのヴィック・メイルからのアドバイスによりモーターヘッドとの共同レコーディングを行うことになり、そこからEP「セント・ヴァレンタインデー・マサカー」(en:''St. Valentine's Day Massacre'') が誕生した〔。このEPには、首を負傷していたモータヘッドのドラマー、フィルシー・"アニマル"・テイラーを除くガールスクールとモーターヘッドのメンバー全員で演奏した「プリーズ・ドント・タッチ」(''Please Don't Touch'')(オリジナルはジョニー・キッド&ザ・パイレーツ)のほか、モーターヘッドがカバーしたガールスクールの「エマージェンシー」(''Emergency'')、ガールスクールがカバーしたモーターヘッドの「ボマー」(''Bomber'') が収録された。
1981年2月19日には、ガールスクール、モーターヘッド全員揃い踏みでBBCトップ・オブ・ザ・ポップスに出演、ヘッドガール (Headgirl) 名義で全員で「プリーズ・ドント・タッチ」を演奏した〔 〕。EPは1981年2月にUKチャートの5位まで上昇〔 〕、同年暮れにはシルヴァー・ディスクを獲得し、両バンドにとってそれまでで最高のセールスを記録した。
1981年4月、アルバム『ヒット・アンド・ラン』(''Hit and Run'') をリリース。シングル・カットされたタイトル・トラックとともにイギリスでヒットし、アルバムは5位まで上昇した。ニュージーランドカナダでもチャート・インし〔 〕〔 〕、ゴールド・ディスクを獲得した〔 〕。同年レディング・フェスティバルに出演〔 〕。
しかし、1982年3月の『ワイルド・ライフ』(''Wild Life'')リリース後、ハードなスケジュールに疲れたベースのエニッド・ウィリアムズが脱退する。レミーの推薦により、ジレン・"ジル"・ウェストンが後任に抜擢された。
1982年6月、サード・アルバム『スクリーミング・ブルー・マーダー』(''Screaming Blue Murder'')をワールドワイドでリリース(プロデュースはナイジェル・グレイ)するも、積極的なプロモーションにもかかわらずUKチャートでは27位に終わった。しかしライブの評価は相変わらず高く、アイアン・メイデン、スコーピオンズらのサポート・アクトとして初めてのアメリカ・スタジアム・ツアーも敢行した。ジューダス・プリースト、デフ・レパードといったNWOBHM勢のアメリカにおける人気を目の当たりにし、彼女たちもアメリカ市場への進出を切望するようになる〔 〕。'をインディーズ・レーベルのシティ・レコーズからリリース。この曲はアンダーグラウンドシーンで話題となり.〔 〕、この噂を耳にしたモーターヘッドレミーにスカウトされ、翌年春からスタートするモーターヘッドのオーヴァーキル・ツアーにサポート・アクトとして起用される〔Kilmister, Ian and Garza, Janiss ''White Line Fever'' (2002) – Simon & Schuster pp. 126-128 ISBN 0-684-85868-1.〕(この時から、モーターヘッドとガールスクールの長い協力関係がスタートした)。
オーヴァーキル・ツアーに続いてバッジーのサポート・アクトなどを務めたのち、モーターヘッドのマネージャー、ダグ・スミスがガールスクールのマネージャーに就任。スミスの尽力により、当時モーターヘッド、ユーライア・ヒープジューシー・ルーシーらを擁していたブロンズ・レコードの契約を勝ち取る。
ヴィック・メイルのプロデュースの下に制作されたデビュー・アルバム『デモリッション』(''Demolition'') は1980年6月にリリースされ、7月にUKアルバム・チャートの28位まで上昇した。
折しもNWOBHMの大ブームの中、ジューダス・プリーストサクソンデフ・レパードアイアン・メイデン、モーターヘッドら錚々たる顔ぶれがUKチャートを席巻し、ヨーロッパ全土をツアーしていた。ガールスクールも時にはヘッドライナーとして、時にはレーベルメイトであるモーターヘッドやユーライア・ヒープのサポートアクトとして、イギリス、ヨーロッパへのツアーに明け暮れた。
1980年8月20日、ガールスクールとモーターヘッドはノッティンガムのシアター・ロイヤルで行ったライブを収録し、この模様は翌1981年4月4日にATVステーションで放送された。この頃には、ガールズ・バンドの成功例として、雑誌、ラジオ、テレビに頻繁に登場するようになり、その 余勢を駆って11月にシングル「イェー、ライト」(''Yeah, Right'')をリリースした。
1980年12月、『デモリッション』に続くセカンド・アルバムの制作中、プロデューサーのヴィック・メイルからのアドバイスによりモーターヘッドとの共同レコーディングを行うことになり、そこからEP「セント・ヴァレンタインデー・マサカー」(en:''St. Valentine's Day Massacre'') が誕生した〔。このEPには、首を負傷していたモータヘッドのドラマー、フィルシー・"アニマル"・テイラーを除くガールスクールとモーターヘッドのメンバー全員で演奏した「プリーズ・ドント・タッチ」(''Please Don't Touch'')(オリジナルはジョニー・キッド&ザ・パイレーツ)のほか、モーターヘッドがカバーしたガールスクールの「エマージェンシー」(''Emergency'')、ガールスクールがカバーしたモーターヘッドの「ボマー」(''Bomber'') が収録された。
1981年2月19日には、ガールスクール、モーターヘッド全員揃い踏みでBBCトップ・オブ・ザ・ポップスに出演、ヘッドガール (Headgirl) 名義で全員で「プリーズ・ドント・タッチ」を演奏した〔 〕。EPは1981年2月にUKチャートの5位まで上昇〔 〕、同年暮れにはシルヴァー・ディスクを獲得し、両バンドにとってそれまでで最高のセールスを記録した。
1981年4月、アルバム『ヒット・アンド・ラン』(''Hit and Run'') をリリース。シングル・カットされたタイトル・トラックとともにイギリスでヒットし、アルバムは5位まで上昇した。ニュージーランドカナダでもチャート・インし〔 〕〔 〕、ゴールド・ディスクを獲得した〔 〕。同年レディング・フェスティバルに出演〔 〕。
しかし、1982年3月の『ワイルド・ライフ』(''Wild Life'')リリース後、ハードなスケジュールに疲れたベースのエニッド・ウィリアムズが脱退する。レミーの推薦により、ジレン・"ジル"・ウェストンが後任に抜擢された。
1982年6月、サード・アルバム『スクリーミング・ブルー・マーダー』(''Screaming Blue Murder'')をワールドワイドでリリース(プロデュースはナイジェル・グレイ)するも、積極的なプロモーションにもかかわらずUKチャートでは27位に終わった。しかしライブの評価は相変わらず高く、アイアン・メイデン、スコーピオンズらのサポート・アクトとして初めてのアメリカ・スタジアム・ツアーも敢行した。ジューダス・プリースト、デフ・レパードといったNWOBHM勢のアメリカにおける人気を目の当たりにし、彼女たちもアメリカ市場への進出を切望するようになる〔 〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ガールスクール」の詳細全文を読む




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