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聖オリガ(, Ol'ga, ? - 969年7月11日)はキエフ大公国第2代大公イーゴリ1世の妃。キエフのオリガとも。夫の死後、キリスト教の洗礼を受けた。洗礼名はヘレナ(日本ハリストス正教会の読みではエレナ)。ルーシでは最初期のキリスト教改宗者であり、ルーシでもっとも早い時期に聖人とされた一人である。聖人としては亜使徒の称号をもつ。 ==経歴== プスコフの出身で、903年頃のちのキエフ大公イーゴリ1世と結婚した。平民の娘であったとも貴族の娘であったともいわれる(ノルマン系と言う説もある。ノルマン人に由来する人名にヘルガと言う人名が存在する)。『原初年代記』によれば、879年生まれだが、彼女が息子を産んだのがその65年後であることを考えると、この年代は受け入れがたい。イーゴリ1世の死後、オリガは、イーゴリ1世との間の子スヴャトスラフ1世の摂政としてキエフ・ルーシを統治した(945年 - 963年頃)。 オリガは摂政としての統治のはじめ、夫を暗殺したデレヴリャーネ族への徹底した復讐を行った〔和田春樹『ロシア史』p36-37〕。その復讐は4段階にも及び、デレヴリャー族の首長を船ごと生き埋めにし(船の埋葬は、ヴァイキングの慣習によるもの)〔田中陽兒「キエフ国家の形成」p66〕、最後はデレヴリャーネ族の本拠を燃やして町を征服したという)。また税制を改革し、税法を整備すると共に、それまでは地方の諸侯に頼っていた徴税を、大公直轄の貢税所を設置した上、自身が直接任命した徴税人を配置した。オリガがデレヴリャー族の居住地域に設置した貢物納入所はポゴスト、上記のような税制改革は「オリガの改革」と呼ばれる〔和田春樹『ロシア史』p40〕。 伝承によれば945年または957年にコンスタンティノポリスでキリスト教に改宗した。東ローマ帝国皇帝コンスタンティノス7世は、自著『儀式の書』に、コンスタンティノポリスにおけるオリガ歓迎の儀式の記録を残している。洗礼名ヘレナはコンスタンティノス7世の皇后ヘレナ・レカペナにちなむ。スラヴの諸年代記は、洗礼式の際、コンスタンティノス7世をオリガが魅了したなどの恋愛に関する記事を載せているが、実際にはこのとき彼女は相当な高齢であり、またコンスタンティノスも妻帯していたため、このエピソードの史実性は疑わしい。コンスタンティノス7世の記録によれば、オリガの随員もまた全員洗礼を受けた。 洗礼は、東ローマ帝国の援助と支持を獲得し、またその高度な文化を移植しうる人材を獲得するための、たぶんに政治的な動機によるものであったと考えられる。オリガは東ローマ帝国に接近する一方で、東フランク王国のオットー1世にも接近し、959年に使者を送ってラテン教会の僧侶の派遣を求めたと西方の記録は伝えている〔田中陽兒「キエフ国家の形成」p68〕。それによれば、オリガは「司教と司祭たち」をキエフに任命してくれるようオットーに嘆願したが、これは偽りの申し出だったと記録は非難している。メルゼブルクのティートマール(Thietmar of Merseburg)は、マクデブルクの初代司教プラハのアダルベルトがキエフの司教として任じられたが、異教徒たちによって追放されたとその年代記に記している。他のいくつかの西方の記録も同様の事件を伝えている。なお、これらの派遣要請の記述はルーシの年代記には記載されていないが、それは年代記の成立期には既に、ルーシはその立場を正教会側に確定していたことによる。 スヴャトスラフ1世が成人すると、オリガは政治の表舞台から離れた。しかしスヴャトスラフ1世の遠征時には、オリガは孫たちとともに残り、キエフを治めた。オリガは986年、ペチェネグ族に包囲されたキエフで病没した。 オリガはキリスト教をルーシに広めようとした。息子スヴャトスラフ1世にも洗礼を勧めたが、断られた。オリガの時代には、ルーシの正教会への改宗は個人的・散発的なものに留まっていた。大規模な改宗が行われるのは、オリガの孫でその薫陶を受けたウラジーミル1世の時代に入ってからのことになる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オリガ (キエフ大公妃)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Olga of Kiev 」があります。 スポンサード リンク
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