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キシナウ( 、)はモルドバ共和国の首都。キシニョフ、キシニョーフ、キシネウといった表記が用いられることもある。人口は647,513人(2004年)。 地名は、ルーマニア語の (泉)と (新しい)に由来する。この泉は今もプーシキン通りにあり、ここから町が形成された。 国土の中央に位置し、市街はドニエストル川の支流の右岸に広がる。約565平方キロメートルの市内は5つの地区に分けられている。地勢は大部分が平地で、中世より葡萄栽培が盛んである。電気工業、機械工業、繊維産業、ゴムやプラスチック製造などが盛んな工業都市。 (1946年10月1日開設)をはじめ、36の大学と(1949年10月6日開設)、キシナウ国際空港などがある。 == 歴史 == 1436年、僧院の集落として創建される。モルダヴィア公国の一都市であったが、16世紀にオスマン帝国の支配下に入る。18世紀には、帝政ロシアとオスマン帝国の係争地となり、1739年と1788年にオスマン軍によって焼き払われた。 19世紀初頭には7,000人の暮らす小村であったが、1812年にロシア帝国がここを占領し、1818年に併合されたベッサラビア州の中心都市となった後、急激に成長し、1862年の人口は92,000人。1900年の人口は125,787人で、そのうちの43パーセントがユダヤ人であった。 1873年以降はベッサラビア県の県都。1877年から1878年の露土戦争の際、キシナウはロシア帝国軍の拠点となり、重要な役割を演じた。 1834年以降、計画的な都市建設が進められた。町は大きく2つに区分けされ、新市街地では東方教会の大聖堂や凱旋門などが完成した。1870年に鉄道駅が建設され、翌1871年にティラスポリとのあいだの鉄道が開通した。 1903年4月には、近代ロシアにおける最大級のポグロムであるが発生した。50人近くのユダヤ系住民が殺害されたほか、数百人が負傷し、多くのユダヤ系商店・住宅が破壊された。この事件はアメリカ合衆国など各地に報道された。 1917年のロシア革命の後、12月2日にモルダヴィア民主共和国の樹立が宣言されるが、キシナウはまだ地方都市程度にしか扱われていない。12月13日にルーマニア王国軍がベッサラビア地方に侵攻し、1918年3月27日にキシナウを含むベッサラビア地方がルーマニアに併合された。 第二次世界大戦中の1940年6月28日、独ソ不可侵条約の秘密議定書による独ソの勢力圏確定により、ソ連赤軍がキシナウに侵攻、8月2日にはキシナウを首都とするモルダビア・ソビエト社会主義共和国の樹立が宣言された。また、同年には地震が起こり、市街は大きな被害を受けた。 1941年6月22日に枢軸軍のバルバロッサ作戦が開始されると、キシナウは空襲を受けた。その後、ルーマニア軍に占領され、再びルーマニアに併合される。8月18日には、ルーマニア王ミハイとヨン・アントネスク将軍がキシナウを視察に訪れた。1944年8月24日、ソ連軍がヤッシー=キシニョフ攻勢の反攻によりキシナウを再び占領する。 第二次世界大戦後、町は急速な復興を遂げた。キシナウにはソ連各地からの移住が奨励され、1944年に25,000人だった人口は、1950年には134,000人となった。 1991年8月27日より、モルドバ共和国の首都。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「キシナウ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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