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クズルバシュ(ペルシア語:、トルコ語:、キジルバーシュ、クズルバシ、キジルバシとも)はサファヴィー教団(イランに存在した、サファヴィー朝の前身となるイスラームの宗教団体)の信徒、および信徒の多数を占めるアナトリア高原に居住するトルコ系遊牧民である。現在のイランとその周辺に現存する、彼らの子孫とされる民族集団もこの名前で呼ばれる。オスマン帝国、シャイバーニー朝ではサファヴィー朝の領土を「クズルバシュの国」、サファヴィー朝のシャー(王)を「クズルバシュの王」と呼んでいた〔羽田「クズルバシュ」『新イスラム事典』、207-208頁〕。 == 歴史 == === サファヴィー朝建国期 === (? - 1488年)がサファヴィー教団の教団長の地位にあった時代に、クズルバシュが誕生した。ハイダルは夢の中に現れたイマーム・アリーの指示に従い、信徒に特殊な帽子をかぶるように命じたという〔羽田「東方イスラーム世界の形成と変容」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、196頁〕。赤い心棒にイマームの数に由来する12の襞がある布を巻きつけたターバンを被った信徒たちは、トルコ語で「赤い頭」を意味するクズルバシュの名で呼ばれた。 1499年にサファヴィー朝の建国者イスマーイール1世が決起したとき、アナトリア高原各地のクズルバシュに檄文が送られ、集合地であるエルズィンジャン郊外には7,000人のクズルバシュが集まった〔羽田「東方イスラーム世界の形成と変容」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、197頁〕。イスマーイール1世の決起から10年以上の間、サファヴィー朝軍はほぼ無敗であり、クズルバシュの間では「無謬の教主」イスマーイールの神性が信仰された。〔羽田「東方イスラーム世界の形成と変容」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、199頁〕。クズルバシュは教主イスマーイールを救世主と信じており、教主のもとでの死は殉教死となるため、彼らは死を恐れずに戦った〔永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、301頁〕。死を恐れずに戦い、密集した陣形を取って敵に突撃を繰り返すクズルバシュの騎兵は、他国の兵士から恐れられた〔永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、243-244頁〕。 イスマーイール1世は軍功の対価としてクズルバシュの部族長たちに地位を与え、大アミール(アミール・ルウラマー)、侍従長(イーシークアーカースィーバーシー)、行政司法長官(ディーワーンベク)などの中央の高官に就く者もいたが、大部分は地方領主の地位を与えられた。領地から上がった税収は政府に収める一部を除き、部族長とその部族の収入となった〔羽田正「三つのイスラーム国家」『イスラーム・環インド洋世界 16-18世紀』、38頁〕。チャルディラーンの戦いの後、封建領主の性質を持ち始めたクズルバシュは部族の利益を求めて行動するようになる〔羽田「東方イスラーム世界の形成と変容」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、203頁〕。イスマーイール1世の存命中はクズルバシュ同士の抗争は表面化しなかったが、イスマーイールが没し、タフマースブ1世が10歳で王位を継ぐと、クズルバシュたちの間に軍事衝突が起きる〔羽田「東方イスラーム世界の形成と変容」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、205頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「クズルバシュ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Qizilbash 」があります。 スポンサード リンク
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