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金 格植(キム・ギョクシク、1940年〔http://www.kinu.or.kr/upload/neoboard/DATA05/etc1.pdf〕10月5日 - 2015年5月10日)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の軍人。朝鮮人民軍総参謀長、人民武力部長、朝鮮労働党中央委員会政治局員候補、朝鮮民主主義人民共和国国防委員会委員を歴任。朝鮮人民軍における軍事称号は大将。 == 経歴 == 野戦軍出身。1971年より、10年ほどシリア駐在北朝鮮大使館の駐在武官として活動する。1980年代より軍団長を務める〔北・軍総参謀長に金格植氏 中央日報 2007年4月23日〕。1990年、最高人民会議代議員、朝鮮労働党中央委員等に選出〔。1992年、朝鮮人民軍上将の軍事称号を授与される〔。 1994年7月、金日成国家主席の死去の際、国家葬儀委員会の名簿の84番目に掲載された〔。同年10月、朝鮮人民軍第2軍団長(西部戦線の軍団)に就任し、10年あまり在職した〔。1997年、朝鮮人民軍大将に昇格〔。 2007年4月、朝鮮人民軍総参謀長に就任〔。2008年11月、朝鮮民主主義人民共和国にて、ミャンマー軍政代表団との会談・軍事協力の覚書調印に参加した〔ミャンマー軍大将が極秘訪朝 昨年、軍事協力で合意 47NEWS 2009年7月3日〕。 2009年2月、朝鮮人民軍第4軍団長(黄海の南北境界水域NLLの軍団)に就任〔 北朝鮮の金格植前総参謀長、NLL管轄の軍団長に ワウコリア 2009年3月12日〕。統一日報はその人事を左遷と位置付けている。同年3月、最高人民会議第12期代議員選挙では、議員に選出されなかった〔〔金総書記夫人、金玉氏の父親が代議員に当選 中央日報 2009年3月11日〕。 2010年11月、延坪島砲撃事件を軍団長として指揮〔延坪島砲撃主導の金格植、葬儀委員名簿から抜ける 中央日報 2011年12月21日〕。 2011年12月、金正日国防委員長の死去の際、国家葬儀委員会の名簿に掲載されず。 2012年10月に人民武力部長への就任が確認され〔「金正恩氏 軍首脳部を大幅に交代=忠誠心重視 」『聯合ニュース』2012年11月29日〕〔「北朝鮮軍の最強硬派・金格植氏、人民武力相就任 」『YOMIURI ONLINE』2012年11月29日〕、2013年3月31日の党中央委員会全員会議で党中央委員会政治局員候補への就任と〔北朝鮮で労働党全員会議、権力の重大変化を発表 中央日報 2013年4月1日〕、翌4月1日の第12期最高人民会議第7回会議で国防委員会委員への就任が確認されたが〔北朝鮮権力の上層部 咸鏡道出身者が躍進 中央日報 2013年4月2日〕、同年5月には人民武力部長の解任〔北朝鮮 人民武力部長に若手の張政男氏任命 『聯合ニュース』2013年5月13日〕と総参謀長への復帰が確認され、同年8月には総参謀長の解任が確認された。 2014年3月に行われた第13期最高人民会議代議員選挙で代議員に選出されたが〔投票率99.97%、当選議員の55%が新顔 朝鮮日報 2014年3月12日〕、同年4月9日に開かれた第13期最高人民会議第1回会議で国防委員会委員に選出されず同職を退任した〔최룡해, 장성택 자리 메우고 명실상부한 '北 2인자'로 朝鮮日報 2014年4月10日〕。 2015年5月10日、朝鮮労働党機関紙の労働新聞は、金格植が癌による呼吸不全により5月10日未明に亡くなったことを報じた〔김격식동지의 서거에 대한 부고 労働新聞(朝鮮労働党) 主体104年(2015年)5月10日閲覧〕〔北朝鮮軍強硬派が死去 砲撃主導説の金格植氏 産経新聞 2015年5月11日閲覧〕。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「金格植」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kim Kyok-sik 」があります。 スポンサード リンク
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