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木村 健悟(きむら けんご、1953年9月4日 - )は、日本の男性元プロレスラー、宮城野部屋所属の元大相撲力士、元歌手。現品川区議会議員(2期)。本名は、木村 聖裔(きむら せいえい、きむら たかしと紹介しているプロレスラー名鑑もある)。愛媛県新居浜市出身。プロレスラーとしての最終所属は新日本プロレス。ニックネームは「稲妻戦士」、若い頃は「貴公子」。 東京都品川区議会民主党無所属クラブ副幹事長、品川区建設委員会副委員長、オリンピック・パラリンピック推進特別委員会、議会運営委員会、スポーツ協会評議員、青少年問題協議会委員。元品川区予算特別委員会副委員長、元品川区オリンピック・パラリンピック推進特別委員会副委員長。〔品川区議会 〕 == 来歴 == 1969年、大相撲の宮城野部屋に入門し、木村山(きむらやま)の四股名で1969年7月場所初土俵。しかし約1年足らずで廃業、最高位は序二段30枚目。大相撲廃業後は、1972年1月に日本プロレスに入門し、1972年8月2日に鹿児島県喜界島中学校グラウンドでの佐藤昭雄戦でデビューを果たした。 1973年3月、坂口征二と共に新日本プロレスへ移籍。1978年、メキシコでNWA世界ライトヘビー級王座奪取。帰国後、坂口の付き人だった木村は、アントニオ猪木の付き人であったライバル藤波辰巳と1970年代後半にジュニアヘビー級チャンプを争い、大旋風を巻き起こす。二人とも美しくビルドアップされており、トペやプランチャ・スイシーダ等の場外へジャンプして飛び込むといった技は当時の日本では斬新であり若者を魅了。ゴールデンタイムでフルタイムドローになる名勝負の数々でジュニアヘビー級の人気が確立された。これにより、新日本プロレスの人気は全日本プロレスを大きく引き離した。 1980年代に入るとヘビー級に転向。長州力やタイガーマスクがプッシュされる中、引き立て役的な役割が増える。1985年、映画ビー・バップ・ハイスクールに不良たちを一喝する教師役で出演。1985年5月24日、藤波辰巳とのタッグチームでWWFインターナショナル・タッグ王座を獲得。10月31日付けで返上に至るも 12月、藤波辰巳とのタッグでアントニオ猪木、坂口征二組に勝利し、初代IWGPタッグ王座を獲得した。その後、藤波と敵対関係となり、幾多の熱戦を繰り広げる。この抗争は非常に盛り上がり、1987年1月には、後楽園ホールにて藤波対木村のシングルマッチのみの興行が行われた。木村は決着戦に敗れ海外遠征に出向き、ベニー・ユキーデのもとでフルコンタクト・キックボクシングを身につけて帰国した。帰国後、パンタロンスタイルとなり、大阪城ホールで、ケリー・ウイルソン(プロ空手)と異種格闘技戦を行い、バックドロップ、右ストレートのコンビネーションで勝利を飾った。 1992年8月、越中詩郎らと反選手会同盟(のちの平成維震軍)を結成し副将格として活躍。1993年2月には天龍源一郎とシングルマッチを行い、敗れはしたが天龍にパワーボムを成功させた。 体力が衰え始めた頃に、小原道由から「こんな弱い奴とやらすな!」とまで罵られたこともあった。その当時、本人もそれを自覚していて2003年4月18日後楽園ホールの西村修とのシングル戦(キャッチレスリングルール)での大熱戦を最後に引退した。引退試合の相手には長年のライバル・藤波を希望していたが、藤波の体調が優れず実現されなかった。引退後は、新日本プロレスのスカウト部長の要職に就き、テレビ解説も行なっていたが、2006年3月27日付けで自主退社した。 2006年4月、社長として株式会社円天興行を設立した。母体会社の会長を直接の師匠筋である坂口征二から紹介してもらったと新聞インタビューで語っている。 2007年9月に円天興業の社長職を辞した。2008年2月、都内にリサイクルショップをオープンした。 2011年4月、東京都品川区議会議員選挙に出馬し、初当選。 2014年に黄色靭帯骨化症に罹患し、手術を受けたことを公表した〔元新日レスラーで品川区議の木村健悟氏、黄色靱帯骨化症の手術成功 サンケイスポーツ 2014年9月23日閲覧〕。 2015年4月、前回より600票上乗せし、2798票で品川区議会議員選挙2期目当選。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「木村健悟」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kengo Kimura 」があります。 スポンサード リンク
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