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キム・ウンウ ( リダイレクト:金膺禹 ) : ウィキペディア日本語版 | 金膺禹[きむ うんう]
金 膺禹(キム・ウンウ、、1848年6月17日 - 1878年10月4日)は、平安南道の小作農民、墓守。金輔鉉の父。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)国家主席金日成の曾祖父。国防委員長の金正日の高祖父。本貫は全州金氏。北朝鮮の教科書ではジェネラル・シャーマン号事件の首魁とされるが、その伝記については北朝鮮のプロパガンダによる捏造が多く疑問視されている〔『壬辰倭乱の金応瑞将軍は、金日成の祖先か?』張海成(ジャン・ヘソン、) 前半では、北朝鮮の歴史教育で「金日成の家は代々続いてきた革命家の家系」だったとしている件を取り上げ、現在は金日成の曾祖父の金膺禹以降の家系からしか教えないが、かつて党が「唯一思想体系」を考えた当初は、これを金應瑞まで接続して、「壬辰倭乱時に平壌まで侵攻してきた倭将小西飛騨守(内藤如安)の首を刎ねた、金應瑞将軍は金膺禹の何代前の先祖である…」と、解説されたことがあるが、大韓民国の歴史学者によると、「金日成の金姓は全州金氏であり、金応瑞の金姓は金海金氏であり、全州金氏は新羅王族の末裔、金海金氏は金官伽耶王族であるため、どのように系譜を辿っても金日成が、金応瑞の子孫となることはあり得ない」と虚偽を暴露されてからは、金膺禹以降の系譜しか教えなくなった件を取り上げ、後半では金膺禹が、ジェネラル・シャーマン号事件で民衆を率いたにしては、年齢が若すぎる点、当時の記録に無い点などを取り上げて虚偽を解説している。また内藤如安が斬首された史実はなく、撤退後、1600年には主君小西行長の下関ヶ原の戦いに西軍として参陣。西軍は敗れたものの東軍前田利長の客将に迎えられ、敗軍の将として処罰されることもなく金沢に居した。1613年、江戸幕府よりキリシタン追放令が出されると、キリシタンであった如安にも累が及び、翌1614年、高山右近らとともにマニラに追放された。同地では日本人町を建設し、1626年に77歳の天寿を全うしている。〕。 == 生涯 == 1848年の旧暦6月17日、朝鮮平安南道平壌中城里で先祖代々の小作農家に生まれる。幼少から小作農業に従事していたが、生活は大変貧困であった為に、1860年代に平壌在住の素封家で大地主の李平澤(リ・ピョンテク)家の墓守になり、墓所近くの高台の一軒家を借りて、萬景臺に移住した。当時の朝鮮では、墓守は卑しい職業〔『ドキュメント・金日成の真実-英雄伝説「1912年-1945年」を踏査する』によると、金日成の生い立ちについて「彼(金日成)の生家が墓守りという朝鮮王朝時代の身分階層上の『賎民』であり、伯母の玄養信が同じく『八賎(代表的賎民)』の一つムーダン(巫堂)だった…」とある文章による。〕の一つであったという。1878年旧暦10月4日、30歳で死去。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「金膺禹」の詳細全文を読む
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