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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
キャサリン・ハワード(, 1521年? - 1542年2月13日)は、イングランド王ヘンリー8世の5番目の王妃(1540年結婚、1542年離婚)。父は第2代ノーフォーク公トマス・ハワードの息子エドムンド・ハワード(第3代ノーフォーク公トマス・ハワードの異母弟)、母はジョイス・カルペパー。2番目の王妃アン・ブーリンの従妹に当たる。 == 生涯 == 生年ははっきりしないが、ジョアンナ・デニーは伝記『Katherine Howard』で、祖父母の遺言状を元に1525年という説を唱えている。 父エドムンドは戦場で名を上げたが、名門ハワード家の出といえど、20人を超える子供のうち遅い生まれであったため、名はあるが実はなく、常に金に困っていた。持参金目当てで結婚しては妻を亡くすということを繰り返し、妻の連れ子も自分の子として育てたため、どちらの子供かもわからないハワード姓の兄弟がキャサリンには多くいた。 時期は不明だが、ノーフォーク公爵未亡人で、父の義理の母に当たるアグネス・ティルニーに引き取られ、アグネスの屋敷(LambethとChesworthの2カ所)で公爵夫人の教育を受ける他の少女達と暮らすようになる。アグネスの目が行き届かず、少女達は恋人を共同寝室に連れ込むようになり、その際にキャサリンも音楽教師のヘンリー・マノックスや秘書官のフランシス・デレハムと関係を持ったといわれる。キャサリンはまだ幼かった計算になる(10歳前後という計算さえ成り立つ)が、デニーによると、当時は10代前半で結婚することがよくあったため、キャサリンが性的に早熟だったわけではない。 1540年、ヘンリー8世は前王妃アン・オブ・クレーヴズと離婚してキャサリンと再婚した。キャサリンはアンの侍女の一人だった。ヘンリーは年の離れたキャサリンを「私の薔薇」「私の棘のない薔薇」と呼んで可愛がった。しかし、キャサリンは遠縁〔The Culpepper Family History Site http://gen.culpepper.com/default.asp によればキャサリンの母とトマス・カルペパーは7代前に共通の祖先がいる〕のトマス・カルペパーや以前に恋人であったフランシス・デレハムらと関係があったと国王の側近に訴えられ(カトリックのキャサリンは、家臣のうちプロテスタントの者に疎まれていた)、国王に姦通を疑われ、逮捕された。キャサリンとデレハムが婚約の上で関係を持っていたのであれば、国王との結婚は無効となりキャサリンは無罪とされるはずであった。だがキャサリンは婚約を否定し、デレハムに強姦されたと証言した。一方でデレハムは国王との結婚後はキャサリンと関係を持っていないと主張したが、キャサリンとカルペパーの関係を証言した。キャトリンからカルペパーに宛て愛を告白した手紙が証拠として発見され、従姉の元王妃アン・ブーリンの義妹で、キャサリンの侍女となっていたジェーン・ブーリンが手引きをしていたことも明らかになった。キャサリン本人は姦通を否定したが聞き入れられず、事実は曖昧なまま処刑された。同じく姦通で訴えられた従姉のアンとは違い、実際に有罪だったと当時も今も信じられている。処刑前には見物人に向かって演説をするのが当時の習慣だが、キャサリンは「トマス・カルペパーの妻として死にたかった」と言ったと伝えられる。 キャサリンが夫ヘンリー8世に直訴しようとしたハンプトン・コート宮殿の廊下は、今もキャサリンの幽霊が無実を訴えようと出没する怪奇スポット「ホーンテッド・ギャラリー」(幽霊の廊下)として、世界的に知られている。ミサを聞いているヘンリー8世のいる部屋まで数メートルのところで、警備兵に捕まえられ、牢に連れ戻されたという話である。しかし、デイヴィッド・スターキーは著書の中で、直訴自体がなかったことを事実を並べて証明して見せた。 アントニア・フレイザーの『ヘンリー八世の六人の王妃』によると、キャサリン・ハワードとはっきりわかっている肖像画はないとのことである。もっとも、上の肖像画に関しては触れられていない。 このページに使われている肖像画はデイヴィッド・スターキーがキャサリン・ハワードと確認したもので、根拠はヘンリー8世の他の王妃も身に着けていたネックレスである。結婚式当日の様子を描いたものではないかと言われている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「キャサリン・ハワード」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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