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キャピー原田(原田 恒男、はらだ つねお、1921年10月16日 - 2010年6月5日)は、日米野球界の橋渡し役として活躍した日系アメリカ人。 == 経歴 == 1921年カリフォルニア州サンタマリア近郊に生まれ、太平洋戦争ではアメリカ陸軍に志願し、敵国語(日本語)情報将校として従軍する。戦後はGHQに配属され、サンフランシスコ・シールズ(Sanfrancisco Seals)と日本プロ野球の親善試合の実現などに貢献した〔市岡弘成・福永あみ共著『プロ野球を救った男 キャピー原田』ソフトバンク クリエイティブ、2009年4月、p136-139〕。 退役後は読売ジャイアンツの国際担当として与那嶺要などの日系アメリカ人選手を獲得したほか、サンフランシスコ・ジャイアンツの極東スカウト担当として日本人初のMLBプレーヤーとなった村上雅則を獲得するなど、日米双方の野球界で活躍した。2009年11月に旭日小綬章を授与される。 2010年6月5日、心不全のためカリフォルニア州で死去〔日系2世キャピー原田氏が死去 共同通信 2010年6月23日閲覧〕。。原田の棺はカリフォルニア州の米軍墓地に埋葬された。 === 太平洋戦争からGHQ時代 === 1941年、真珠湾攻撃を知ってアメリカ陸軍に志願し、陸軍情報外国語学校に入学。1944年には神風攻撃での負傷によりパープルハート章(Purple Heart)を授与される。終戦後はGHQ経済科学局(Economic Scientific Section)局長であるウイリアム・F・マーカット少将の副官として配属され、当時の大蔵大臣・池田勇人とマーカットとの国家予算など重要な交渉の通訳を担当(→池田勇人)。 また松本瀧藏や佐伯達夫らとともに甲子園球場の接収解除、鶴岡一人らが進めた大阪球場建設許可の折衝、松本、正力松太郎、鈴木惣太郎らとともにサンフランシスコ・シールズ(Sanfrancisco Seals)と日本プロ野球の親善試合の実現に貢献、球団や日本側との交渉など実務を担当するなど、日本野球の戦後復興に尽力した〔波多野勝著『日米野球史―メジャーを追いかけた70年』、PHP研究所、2001年10月、p196-202〕〔永井良和・橋爪紳也著『南海ホークスがあったころ』、紀伊國屋書店、2003年7月、48-59〕〔『プロ野球を救った男 キャピー原田』、p136-139、143、165、166、337〕。1947年人気歌手の暁テル子と結婚(1958年に離婚)。 === 読売ジャイアンツ/SFジャイアンツでのスカウト活動 === アメリカ陸軍を退役後、1951年に読売ジャイアンツの国際担当に就任。セ・リーグの有力選手をサンフランシスコ・シールズの春キャンプに送り込む。小鶴誠(松竹)、川上哲治(巨人)、藤村富美男(阪神)、杉下茂(中日)の4選手が参加。また、ハワイ出身の日系二世、与那嶺要をサンフランシスコ・シールズから獲得する。翌年は広田順、西田亨、1953年には柏枝文治、松岡光雄、1955年は宮本敏雄と、ハワイ出身選手を次々に読売ジャイアンツにスカウトする。 1960年には力道山の要請でリキ・エンタープライズ副社長に就任する。 1964年、サンフランシスコ・ジャイアンツの極東スカウト担当として、傘下のマイナーチーム・1Aフレズノに野球留学していた村上雅則投手を獲得する。村上は8月31日にメジャーに昇格、翌9月1日のニューヨーク・メッツ戦に日本人として初めてメジャー登板を果たし、この年は9試合に登板して1勝1S、防御率1.80の好成績をおさめた。 === マイナーリーグGMからMLBでの活動 === 1966年、カブス傘下の1A ローダイ・クラッシャーズ(現在のエンゼルス傘下1A+ ランチョ・クーカモンガ・クエークス :en:Rancho Cucamonga Quakes)のゼネラル・マネージャ(GM)に就任。その後サンフランシスコ・ジャイアンツの広報担当(1968年〜)、会長補佐(1971年〜)を経て、大リーグコミッショナー事務局(1976年から1980年まで)に所属する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「キャピー原田」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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