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キャロライン・オブ・ブランズウィック : ミニ英和和英辞書
キャロライン・オブ・ブランズウィック[らん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)

キャロライン・オブ・ブランズウィック : ウィキペディア日本語版
キャロライン・オブ・ブランズウィック[らん]

キャロライン・アメリア・エリザベス・オブ・ブランズウィック=ウォルフェンビュッテル(Caroline Amelia Elizabeth of Brunswick-Wolfenbüttel, 1768年5月17日 - 1821年8月7日)は、イギリス国王ジョージ4世の王妃。父はハノーヴァー家とは同族のブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公カール・ヴィルヘルム・フェルディナント、母はジョージ3世の姉オーガスタ。ジョージ4世とは従兄妹同士である。ドイツ語名はカロリーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル(Caroline von Braunschweig-Wolfenbüttel)。
== 生涯 ==
1793年イギリス王太子ジョージの借金は、再三の政府の埋め合わせにもかかわらず40万ポンドに達していた。国王の年間宮廷費が83万ポンドであるのに対し、その半分を彼の借金が占めるという有様である。おまけにジョージは、意中の女性フィッツハーバート夫人を何としても手に入れようと、イングランド国教会の教会で結婚式を行うことまでしていた(夫人はカトリック教徒であった上、1772年発令の王室結婚令にかんがみてもこの結婚は無効である)。困り果てたジョージ3世は、正式な結婚を皇太子に迫り、それを条件に借金の棒引きを持ちかけた。肖像画でその美貌が謳われていたキャロラインをジョージが選び、政略もあり結婚となった。
1795年ロンドンに到着したキャロラインと面会したジョージは、彼女の強烈な体臭に面食らったという(日本ほど入浴の習慣のないヨーロッパでは体臭が当たり前だったが、キャロラインは風呂嫌いで有名だった)。キャロラインのほうもジョージの異常な肥満体(1791年には110キロあったという)に失望したという。3日後、セント・ジェームズ宮殿で挙式が行われたが、式にのぞんだジョージはやけくそのように酔っぱらい、弟たちに左右を支えられて立っている有様であった。
1796年1月に長女シャーロットが生まれた。それから間もなく2人は別居し、ジョージは愛人フィッツハーバート夫人と再び同棲を始めた。シャーロット王女は王家が養育し、母キャロラインから引き離された。娘と会うのをジョージに妨害され、孤独の生活に追いやられたキャロラインは、1813年から大陸諸国への旅行を許され出国し、旅から旅の生活が始まった。エルサレムで聖キャロライン騎士団を設立、愛人のバルトロメーオ・ペルガーミ(Bartolomeo Pergami)を総長に任命した。〔British royal history: Queen be | The Economist 〕〔British Museum - A R-Y-L visit to a foreign capital or, the ambassador not at home
1816年、シャーロット王女がザクセン=コーブルク=ザールフェルト公家の末子レオポルト(後に初代ベルギー国王レオポルド1世となる)と結婚したが、翌1817年に男子を死産して間もなく死去した。自分と暮らしたことのない娘であったが、その死に目にも会えなかった。
1820年1月、国王に即位したジョージ4世は、法的には今や王妃であるキャロラインとの離婚を考えた。手始めに王家の祈祷書から名前を削ろうとするが、カンタベリー大主教サットンが正当な手続きではないと猛反発した。次は、内閣に離婚承認案の成立を要求した。侍従との間に不貞を働いたという理由であったが、国王の気まぐれに従わない議会に否決された。怒り心頭に発した国王は、戴冠式への王妃の出席を拒否した。1821年、キャロラインは戴冠式に備えて急ぎ帰国したが、国王が手を回していたために全ての会場から閉め出された。
1821年8月7日、ハマースミスで死去した。その急死には謎があり、病死ではなく薬を盛られたのではと噂された。遺言でウィンザーに眠るシャーロット王女のそばに埋葬されることを望んだが、それも拒否され、故国のブラウンシュヴァイクに葬られた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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