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キャーズム・オルバイ : ミニ英和和英辞書
キャーズム・オルバイ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

キャーズム・オルバイ : ウィキペディア日本語版
キャーズム・オルバイ[ちょうおん]

メフメット・キャーズム・オルバイ(Mehmet Kâzım Orbay, 1887年3月11日1964年6月3日)は、オスマン帝国およびトルコ軍人1944年から1946年まで、第3代トルコ共和国参謀総長を務めた。最終階級は、「オルゲネラル」 (Orgeneral大将)。エンヴェル・パシャの義弟。

== 経歴 ==
オスマン帝国イズミルに生まれる。1904年12月11日、陸軍工科学校を砲兵科首席で卒業し砲兵少尉に任官した。1907年10月5日、陸軍大学を卒業し、参謀大尉となる。1908年から1909年にかけての一年間、ドイツ帝国に留学し、砲兵および歩兵射撃の授業を受けた。バルカン戦争に従軍。軍事省首席副官となり、第一次世界大戦中はエンヴェル・パシャの側近となった。1915年にはの一員としてアフガニスタンに赴き、大守ハビーブッラー・ハーンに対し、オスマン帝国スルタンメフメト5世ジハードを宣言したと伝え、イギリスとの断交と中央同盟国側での参戦を促した。
大戦の敗北後、アナトリア半島でのトルコ革命に参加し、1920年から1922年まで東部戦線参謀長として東部アナトリアで戦い、国防省陸軍局長を務めた後、西部戦線のに第三カフカス師団長として従軍した。ドゥムルプナル戦勝後の8月31日に「ミールリヴァー」に、1926年8月30日に「フェリク」に昇進した。1929年1月4日から2月7日まで、アフガニスタン王国で任務についた。1930年7月20日に、ジャンダルマ総司令官に任命され、1935年8月24日に第三軍監察官 (平時の司令官職名)に任命され、同30日に「オルゲネラル」(大将)に昇進した。1943年2月15日、最高軍事評議会のメンバーとなった後、同年12月1日に参謀本部参謀次官に任命された。さらに、1944年7月29日、退役したフェヴズィ・チャクマク元帥の跡を継いで第3代トルコ共和国参謀総長に就任したが、1946年に同職を辞任し、再び最高軍事評議会のメンバーを務めた後、1950年7月6日に退役した。
1960年に一部将校がクーデターを起こして政権を掌握した際(:en:1960 Turkish coup d'état)、オルバイは上院議員に選出され、1961年にはトルコ大国民議会議長を務めた。アンカラ胃ガンのため死去し、イスタンブルのズィンジルリクユ墓地に埋葬された。遺体はのちにトルコ国家墓地に改葬された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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