|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
キョウエイボーガンは日本の競走馬。1992年の中日スポーツ賞4歳ステークス、神戸新聞杯に優勝した。 == 経歴 == 1991年11月末、阪神開催の新馬戦でデビュー。逃げ切りで初戦勝利を挙げる。しかし次走と翌1月に出走した条件戦では、いずれも中団からレースを運んで大敗。直後には骨膜炎(ソエ)を発症し、休養に入った。 5月に条件戦で復帰、この競走から鞍上に松永幹夫を迎えた。ここで新馬戦と同様に逃げ戦法を採ると、2着に1馬身半差を付けて優勝、2勝目を挙げた。次走も先行し連勝すると、重賞初出走となった中日スポーツ賞4歳ステークスも逃げ切り優勝を果たした。秋を迎え、神戸新聞杯に出走。この競走も逃げ切りで重賞2連勝となり、菊花賞に向けた「夏の上がり馬」として一躍注目を集めた。 次走の京都新聞杯で、春のクラシック二冠馬ミホノブルボン、東京優駿(日本ダービー)2着のライスシャワーと初対戦する。当日は両馬に次ぐ3番人気に支持されたが、道中で本馬と同じく逃げ馬であるミホノブルボンに先頭を譲った結果、同馬の9着と大敗を喫する。スタートから先頭を切らなかったために、走りのリズムを崩したことが明らかと捉えた陣営は、菊花賞を迎えるに当たり「どのような結果となっても道中でミホノブルボンに先頭は譲らない」旨の宣言を出した。菊花賞の3000mという距離を不安視されている上、これまで他馬に競り掛けられた経験がないミホノブルボンは、同競走において史上5頭目のクラシック三冠達成が懸かるという事情があり、この宣言は大きな注目を集めた。 当日は前走から大きく人気を落とし、11番人気という評価となった。レースでは宣言通りミホノブルボンの先手を取って先頭に立ち、ハイペースのまま、2周目の第3コーナーまでミホノブルボン以下を先導した。その後第3コーナー出口で失速、そのまま後退し結果は16着に終わる。一方のミホノブルボンは直線半ばでライスシャワーに交わされて2着に敗れ、三冠は成らなかった。このため競走後には、「ミホノブルボンの三冠を邪魔した」として、キョウエイボーガン陣営を非難する声も上がった。 その後は、年末にオープン戦で2着となり翌1993年を迎えた。しかし以降は脚部不安を抱え、この年3戦で全て着外(5着以下)に終わり、競走馬を引退した。 その後は廃用となる予定であったが、本馬のファンであった岡山県の主婦・松本かおりに身元を引き受けられ、引退競走馬の福祉施設土佐黒潮牧場に送られた。1996年からは引退名馬けい養展示事業の助成を受け、現在は群馬県の乗馬クラブで余生を送っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「キョウエイボーガン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|