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キヨヒダカは、日本の競走馬。旧6歳時に中央競馬の重賞競走3勝を挙げた。ダート・芝コースを問わず短距離・中距離路線で活躍した。 == 競走成績〔netkeiba.com 〕 == 馬齢は旧表記を用いる。 美浦トレーニングセンターの森安弘昭厩舎に所属したキヨヒダカは、3歳時(1980年)デビュー戦で2着となったあと、中京競馬場の未勝利戦(ダート1000m)で初勝利をあげる。 4歳(1981年)になってクラシック路線を目指して、1勝馬の身ながら重賞競走に挑戦する。中山競馬場での京成杯、同じく中山競馬場でのスプリングステークスと連続で3着になり、クラシック第1弾皐月賞の出走権を獲得する。 6番人気となった皐月賞では、ここまでと同様先行して見せ場を作るも13着に敗れる。その後、東京優駿(日本ダービー)出走をかけてオープン競走に出走するも6着に終わり出走権は得られなかったが、この後はダートの競走で圧勝すると、芝の条件特別でも安定した成績を残す。 5歳時(1982年)は中京競馬場での芝の条件特別を勝ったあと、中山競馬場ダート1800mのオープン特別を1分49秒0のレコードタイムで快勝。札幌競馬場で3戦するもいいところがなかった(7着・5着・3着)が、函館競馬場での巴賞(芝1800m)を勝ち、芝のスピードレースでも通用するところを見せる。この後の函館競馬場での2戦は惨敗するも、休養後のダービー卿チャレンジトロフィーで2着に入り、いよいよ充実の6歳を迎える。 6歳時(1983年)は初戦の中山競馬場ダート1800mのオープン特別を1分48秒5のレコードタイムで快勝〔このレコードタイムは2016年11月現在も残っており、プレミアムサンダーに0秒1更新されるまで、長く日本レコードでもあった。〕。続くダートのオープン特別は6着だったが、スプリンターズステークス2着、京王杯スプリングハンデキャップ3着、そして、新潟大賞典では、初騎乗の増沢末夫を背に1番人気に応え重賞初勝利を飾る。 続く安田記念は、翌年からJRAG1競走になったものの、この年は格付けの無いハンデキャップのマイル重賞であったが、桜花賞優勝馬のブロケードを鼻差退け、重賞を連勝する。更に1戦をはさんで、秋の京王杯オータムハンデキャップも勝ち、この年重賞3勝目を飾る。 秋は、毎日王冠に挑むも7着。福島民報杯も3着に敗れる。 7歳時(1984年)はJRAG1になった安田記念で果敢に先行し5着に粘るも、それ以降8歳(1985年)までは、よい成績を残せずに引退する。 全盛期の強い勝ち方を見ていると、もう1年グレード制の導入が早く、短距離路線が整備されていれば、相当の成績を残したであろう。一流のマイラーであり、ダートの適性もかなりのものであった。 長らく中山競馬場ダート1800mのレコードホルダーであるため、競馬新聞等の出馬表に名前が掲載されている関係上、JRAG1級を勝っていないこの時代の馬にしては一般ファンにも知られている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「キヨヒダカ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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