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ブッチャー・ブラニガン(Butcher Brannigan 、本名:Joseph Novo、1948年9月3日 - 2009年9月7日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ニュージャージー州パースアンボイ出身〔。 キラー・ジョー・ノボ(Killer Joe Novo)のリングネームでも知られ、1970年代前半はWWWFのアンダーカードにてヒールの中堅選手として活動。ブッチャー・ブラニガンに改名後はオセアニアやヨーロッパなど各国を転戦した。 == 来歴 == 1971年よりジョー・ノボまたはジョー・ノバの名義でWWWFに出場。キング・カーティス・イヤウケア、プロフェッサー・タナカ、ゴリラ・モンスーン、チーフ・ジェイ・ストロンボー、スパイロス・アリオン、フレッド・カリーらメインイベンターのジョバーを務め、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンではエドワード・カーペンティアとの対戦も組まれた。 1972年7月、キラー・ジョー・ノボのリングネームで末期の日本プロレスに初来日、ジャイアント馬場ともシングルマッチで対戦している。翌1973年からはジョー・ノボ名義でのWWWF出場と並行して、南部や西海岸のNWA圏およびカナダではブッチャー・ブラニガンと名乗って活動。ジョージアではボブ・アームストロングやミスター・レスリング2号と対戦、ロサンゼルスでは1974年にマンマウンテン・マイクと巨漢コンビを組み、アンヘル・ブランコ&ドクトル・ワグナーやポークチョップ・キャッシュ&ビクター・リベラとNWAアメリカス・タッグ王座を争った。 1975年5月、キラー・トーア・カマタらと共に国際プロレスに来日。エースのラッシャー木村と金網デスマッチで対戦し、ジェフ・ポーツをパートナーにIWA世界タッグ王座の争奪戦にも出場した(1回戦でグレート草津&マイティ井上に敗退)。国際プロレスと提携していたカルガリーのスタンピード・レスリングでは、タワーリング・インフェルノやドン・ガニアと組んでエディ&ジェリー・モローのインターナショナル・タッグ王座に度々挑戦した。 1977年より南半球のオセアニア地区に進出し、翌1978年にかけてオーストラリアを主戦場に活動。バグジー・マグロー、キラー・カール・クラップ、オックス・ベーカー、ジョー・ルダック、ブルーザー・ブロディなど北米から参戦してくるヒール勢と共闘し、現地ベビーフェイスのラリー・オーディやロン・ミラーと抗争。リック・マーテルやアンドレ・ザ・ジャイアントとも対戦した〔。 帰米後は古巣のロサンゼルス地区にて、プロフェッサー・イトー、レロイ・ブラウン、アル・マドリル、トム・プリチャード、ミル・マスカラスらと対戦。1980年8月29日にはLAにスポット参戦したボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に挑戦した。オセアニアでの活動も続け、ニュージーランドでは1981年9月17日、スティーブ・リッカードを破りNWA英連邦ヘビー級王座を奪取している。 1982年はヨーロッパにも遠征し、イギリスではロンドンのロイヤル・アルバート・ホールにてピート・ロバーツと対戦。同年秋にはドイツのハノーバー・トーナメントに出場、ビッグ・ジョン・クイン、アクセル・ディーター、クラウス・カウロフ、スティーブ・ライト、トニー・セント・クレアー、ミレ・ツルノ、エド・ウィスコスキーらと優勝を争い、ムース・モロウスキーとも大型タッグチームを結成した。キャリア末期の1983年にはニュージーランドにて、前王者パット・オコーナーの返上で空位となっていたNWA英連邦ヘビー級王座を再び獲得している〔。 引退後は故郷のニュージャージーにて刑務所の職員に転じた〔。2009年9月7日、腎不全と心臓病のため死去〔。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ブッチャー・ブラニガン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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