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キリル・セミョーノヴィチ・モスカレンコ(;1902年5月11日 - 1985年6月17日)は、ソ連の軍人。ソ連邦元帥。ソ連邦英雄(2度)。'';1902年5月11日 - 1985年6月17日)は、ソ連の軍人。ソ連邦元帥。ソ連邦英雄(2度)。 ==経歴== ウクライナのドネツィク州に属するエカテリノスラフ県バフムート郡グリシノ村出身。地元の教会の教区学校卒業後、省学校に入り、優秀で卒業。 1920年、コムソモールに入り、クリチェンコの赤衛隊に入隊し、マフノ部隊と交戦。その後、赤軍に入隊する。ロシア内戦終結後、1922年、ハリコフ統合赤指揮官学校を卒業し、騎砲大隊の小隊長として第6チョンガル騎兵師団に配属。1923年、同大隊の教育中隊長、その数年後、連隊参謀長となる。その後、指揮要員完全化課程を修了し、ザバイカルで連隊参謀長、連隊長を歴任。沿海地方に異動し、戦車旅団砲兵部長。1932年、第1騎兵師団参謀長、1933年、師団長となる。 キエフに異動し、機械化軍団砲兵部長となる。ジェルジンスキー名称アカデミー卒業後、1939年、狙撃師団砲兵部長に就任。その後、モルドバに異動し、機械化軍団砲兵部長となる。開戦直前、ルツク市の対戦車旅団長に任命。 独ソ戦時、モスカレンコの旅団は、ドイツ軍の戦車を撃退しつつソ連軍の退却を援護した。この功績により、1941年7月にレーニン勲章が授与された。同年9月始め、第15狙撃軍団長に任命。キエフで包囲されたが、包囲網を突破しプセル川まで後退した。その後、第13軍の騎兵・機械化軍集団司令官に任命され、モスクワの戦いに参加した。 1942年1月始め、南西戦線第6軍司令官、同年3月に第38軍司令官となる。第二次ハリコフ攻防戦に参加したが、作戦は失敗しドン川まで退却した。スターリングラード攻防戦が始まると、再編成された第1戦車軍の司令官に任命される。 1943年2月にスターリングラードで勝利した後、モスカレンコはヴォロネジ戦線第40軍司令官に任命された。第40軍は、オストロゴオシュク・ロッソシャンスク作戦に参加し、その後、第3戦車軍と共にヴォロネジを奪回した。ハリコフやベルゴロドの奪回にも貢献したが、マンシュタイン元帥の反撃に遭い、3月にはベルゴロドを失ってオボヤニ付近まで撤退する(第三次ハリコフ攻防戦)。クルスクの戦いに参加してオボヤニの戦線を支え、第四次ハリコフ攻防戦に参加し、さらにドニエプル川まで進出する。ドニエプル川強行渡河に成功した功績により大将に昇進し、ソ連邦英雄の称号が授与された。キエフ作戦が始まると再び第38軍司令官に戻り、11月におけるキエフの解放に参加した。1944年4月、カメネツ・ポドリスキーを解放した。第38軍は、プロスクロヴォ・チェルノヴィツ作戦に参加した後、チェコスロバキア第1軍団と共にスロバキアを攻撃する。カルパチア作戦後、ヤスロ・ゴルリツ作戦を行い、ドイツ軍の春の目覚め作戦を粉砕するのに貢献し、プラハで終戦を迎えた。チェコスロバキア解放に対して、チェコスロバキア共和国英雄の称号が授与された。 戦後、1948年、モスクワ軍管区司令官に任命。1953年、スターリンの死後権力を握ったラヴレンチー・ベリヤの逮捕と処刑を指揮する。1955年、ソ連邦元帥。1960年から1962年、戦略ロケット軍司令官/国防次官。1978年、2回目のソ連邦英雄称号が授与された。 1985年、モスクワで死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「キリル・モスカレンコ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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