|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 王 : [おう] 1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) ・ 王国 : [おうこく] 【名詞】 1. kingdom 2. monarchy ・ 国 : [くに] 【名詞】 1. country
キルワ王国とは、16世紀まで東アフリカのキルワ島で栄えた王国である。スンナ派のイスラム教が信仰されていた〔富永「東アフリカ沿岸部・スワヒリの世界」『アフリカ史』、116頁〕。13世紀から15世紀にかけて海上交易によって繁栄し、キルワ島にはモスク(寺院)、王宮などの建物が造られた。16世紀初頭に東アフリカ沿岸部に進出したポルトガルの攻撃を受けて衰退した。 首都のキルワ(キルワ・キシワニ)はキルワ・キシワニとソンゴ・ムナラの遺跡群として世界遺産に登録されている。 == 歴史 == キルワ王国が成立した時期は10世紀の半ばと推定されている〔中村「キルワ島の海環境とキルワ王国」『比較人文学研究年報』4巻、50頁〕。 王国の歴史を述べた『キルワ年代記』には、危機的状態に置かれていたイランのシーラーズを脱出したあるスルターンと6人の王子が東アフリカに向けて船を出し、そのうちの王子の一人がキルワ島に漂着して王朝を創始した物語が記されている。東アフリカのスワヒリ文化の起源をアラブ・ペルシアに定める研究者は年代記の建国神話はおおむね史実に基づいたものであると考え、王朝の名前である「シラジ」はシーラーズ(もしくはイラン南部の港町シーラーフ)が転訛したものだと推測している〔富永「東アフリカ沿岸部・スワヒリの世界」『アフリカ史』、118頁〕。一方、スワヒリ文化がアフリカで発生したものだと主張する研究者は「シラジ」の語源はケニア北部を指す地名の「シュングワヤ」であり、建国神話は王家の血統の正統性を強固にするための創作だと考えている〔富永「東アフリカ沿岸部・スワヒリの世界」『アフリカ史』、118-119頁〕。ほか、キルワ島に移住したの住民が権威付けのために当時繁栄していたシーラーフの出身を自称していたとする説も存在する〔富永「東アフリカ沿岸部・スワヒリの世界」『アフリカ史』、119頁〕。 歴史学者のバズル・デヴィドソンは、キルワ王国の支配領域はモザンビーク海岸部のソファラからザンジバルに広がっていたと推定している〔デヴィドソン『ブラックマザー』、171頁〕。12世紀にキルワ王国はアフリカ大陸内陸部で産出される金の集積地であるソファラを支配下に収め、金交易を独占する〔バットゥータ『大旅行記』3巻(家島訳注)、419頁〕。ダーウード・ブン・スライマーン(在位:1131年 - 1170年)は「貿易の長」と呼ばれ、ペンバ、ザンジバル、マフィア島に勢力を拡大した〔。 13世紀以降、キルワはモンバサ、モガディシュなどの東アフリカ沿岸部の港湾都市と共に交易拠点として急速に発展する〔バットゥータ『大旅行記』3巻(家島訳注)、413頁〕。13世紀初頭に地理学者ヤークートが著した辞典『地理学辞典』には、キルワをはじめとするスワヒリ都市が盛んに交易を行っていたことが記されている〔家島『海が創る文明』、327頁〕。13世紀半ばにキルワ王国はシャンガ(キルワ島南のサンジュ・ヤ・カティ島と同一視される)の住民と交易の支配権を巡って争って勝利を収め、キルワの勝利はスワヒリ文明と交易の急速な発展を促進した〔マトベイエフ「スワヒリ文明の発展」『ユネスコ・アフリカの歴史』4 下巻、670頁〕。キルワ王国はスワヒリ海岸における交易の影響力を強固にするためモンバサを支配下に置き、北部のスワヒリ都市マリンディと対立する〔家島『海が創る文明』、285頁〕。また、13世紀にはキルワ王国とイエメンのラスール朝、ヒジャーズ地方のアシュラーフ(預言者ムハンマドと血縁関係があるメッカの名家)との関係が強化された〔家島『海が創る文明』、328頁〕。13世紀にキルワ王国の法学はハワーリジュ学派からシャーフィイー学派に変化するが、その背景にはキルワ王国とイバード派が多いオマーンとの関係が希薄になり、イエメンとの文化的交流が深くなった事情があったと考えられている〔家島『海が創る文明』、330頁〕。 14世紀初頭から始まるキルワ王国の発展と同時期に「アブル・マワーヒブ」という名前の新しい王朝が出現する〔。1331年にキルワ島を訪れた旅行家のイブン・バットゥータは、キルワ(クルワー)の町並みの美しさを称賛した。バットゥータが訪れた当時の王国のスルターンはアブー・アル=マワーヒブ・ハサン・ブン・スライマーン(在位:1310年 - 1333年)で、アフリカ大陸部内陸部でジハード(聖戦)を行って金、奴隷、象牙を獲得した〔バットゥータ『大旅行記』3巻(家島訳注)、223-224頁〕。 15世紀に入ると王国の支配者層の中に形成されたグループ間で政争が起こり、王国は徐々に衰退していく〔マトベイエフ「スワヒリ文明の発展」『ユネスコ・アフリカの歴史』4 下巻、674頁〕。スルターン・フサイン(在位:1409年 - 1432年/33年)からスルターン・サイード(在位:1446年 - 1453年以後)の治世の間に内紛が起こり、7人のスルターンが現れた〔家島『海が創る文明』、235-236頁〕。1450年代前半に王位を奪われたラスール朝のマスウードはキルワ王国に保護を求め、サイードはマスウードに援助を与えて送り出した。サイードの後に即位したスルターン・スライマーン在位中にキルワ王国の内訌は深刻化し、援助を受けるために再びキルワ島を訪れたマスウードの要請を拒んでいる〔家島『海が創る文明』、239頁〕。スルターン・フザイルの在位中に東アフリカにポルトガルの艦隊が来航し〔家島『海が創る文明』、276頁〕、『キルワ年代記』7章にはヴァスコ・ダ・ガマが指揮するポルトガル艦隊がスワヒリ諸都市に現れた事件が驚きと不安をもって記されている〔富永「東アフリカ沿岸部・スワヒリの世界」『アフリカ史』、122-123頁〕。 15世紀末にキルワ王国のスルターンは首長(アミール)のイブラーヒームによって暗殺される〔クリフ『ヴァスコ・ダ・ガマの「聖戦」』、271-274頁〕。ヴァスコ・ダ・ガマの命令を受けたキリスト騎士団員ペドロ・アルヴァレス・カブラルは王国の支配権を握るイブラーヒームに通商条約の締結を申し出るが、イブラーヒームはポルトガル人の動向に疑いを抱き、交渉は決裂する〔。1502年7月12日にキルワ島の沖に停泊したガマの艦隊は王宮への砲撃をほのめかし、イブラーヒームはポルトガル人に降伏する〔。キルワ王国は一旦はポルトガルへの貢納を承諾するが、それから間もなく貢納を拒否したため、1505年にフランシスコ・デ・アルメイダが率いるポルトガル艦隊によってキルワ島は破壊され、町は略奪に晒された〔富永「東アフリカ沿岸部・スワヒリの世界」『アフリカ史』、124頁〕 インド洋、ペルシア湾につながる海上交易路はポルトガル、アフリカ大陸内陸部への陸上交易路は部族勢力によって妨害され、キルワ王国の没落は顕著になる〔デヴィドソン『ブラックマザー』、171頁〕。1587年にアフリカ大陸内陸部のバントゥー系民族のジンバの攻撃によって王国は滅亡し、キルワ島はポルトガルの植民地とされた〔『ユネスコ世界遺産 12(中央・南アフリカ)』、182頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「キルワ王国」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|