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キングスマウンテンの戦い(キングスマウンテンのたたかい、英:Battle of Kings Mountain)は、アメリカ独立戦争中の1780年10月7日に南部戦線のノースカロライナ、キングスマウンテンで、愛国者(アメリカ独立を志向する者)軍民兵と王党派(イギリスへの忠誠を重んじ、独立を志向しない者)軍民兵の間で戦われた戦闘である。愛国者軍の勝利によって、イギリス軍南部方面軍指揮官のチャールズ・コーンウォリスが当てにしていた王党派の支援が潰えてしまったことで重要な意味がある。後にセオドア・ルーズベルトは「アメリカ独立戦争の転換点となった輝かしい勝利だ」と書き記した。 == 背景 == 1780年8月16日のキャムデンの戦いで大陸軍のホレイショ・ゲイツ将軍が大敗し、イギリス軍のチャールズ・コーンウォリス将軍はジョージアとサウスカロライナを支配下に収め、ノースカロライナ侵攻の作戦を立て始めた。しかし、サウスカロライナでは植民地の者同士の内戦が激しさを増し続けていた。元々イギリス軍が南部に侵攻したのは、南部に潜伏する王党派の民を糾合してこの地域を支配すれば、戦争を有利に進められるという読みであり、正規軍以外に王党派民兵による部隊を結成していた。大陸軍南部方面軍は崩壊状態だったので、一群の自称大佐達、アイザック・シェルビー、イライジャ・クラーク、チャールズ・マクダウエルらによって率いられた愛国者軍民兵が、王党派軍民兵の前哨部隊に奇襲攻撃をかける戦法を採っていた。コーンウォリスは自軍の西方を守るために、パトリック・ファーガソンを送って民兵の指揮を執らせた。 コーンウォリスは1780年9月9日にノースカロライナに入り、9月26日にはシャーロットに到着した。ファーガソンも後を追い、ギルバータウンに前進基地を設営したうえで、愛国者軍の指揮官に、武器を捨てて降伏するか、さもなくば「火と刀でお前達の郷土を破壊してやる」と挑戦状を送った。しかし、この乱暴な物言いはアパラチア開拓民からなる民兵を焚きつけただけであり、ファーガソンの王党派軍が来る前に戦闘に討って出ることに決めた。これらの民兵は山を越えてきていたので、オーバー・マウンテン部隊とも呼ばれていた。総勢は約900名とされているが、実際にはもう少し多かった可能性がある。全体を統率する指揮系統は無く、ウィリアム・キャンベル、ジョン・セビア、ジョセフ・マクダウエル、ベンジャミン・クリーブランド、ジェイムズ・ウィリャムズら大佐達がそれぞれの部隊を指揮していた。他にもジョセフ・ウィンストン、エドワード・レイシー、フレデリック・ハムブライトといった大尉達が独自の部隊を率いていた。 王党派軍は、ファーガソン以外はすべて王党派のアメリカ植民地人であり、1,000名を超える訓練された民兵であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「キングスマウンテンの戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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