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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
キングハイセイコーは日本の競走馬。主な勝鞍は羽田盃、東京ダービー。 == 概要 == 馬齢は2000年以前は旧表記を用いる。 浦和競馬場でデビュー。1983年の3歳時は6戦6勝。 明け4歳となった7戦目のニューイヤーカップで前年の全日本3歳優駿優勝馬ヨシマサボーイを圧倒し優勝、7連勝(全勝)を飾った。 その後も無傷の9連勝を飾るも、10戦目の黒潮盃では京浜盃で快速を披露したステートジャガーに逃げ切られ3着に敗れた。キングハイセイコーは初の右回りコースでギコチない動きの上、再三の不利があっての3着であった。 二度目の対決となった南関東三冠初戦・羽田盃では、1番人気こそステートジャガーに譲った〔『優駿』1984年7月号、日本中央競馬会、164頁〕が、三番手に付けたキングハイセイコーが逃げたステートジャガーを捕らえて、2馬身半突き放して優勝。続く東京ダービーは、、2着のロツキータイガーに1馬身半の差をつけて快勝した。このダービーは浦和VS大井で大いに盛り上がった。 このキングハイセイコーのダービー楽勝に報知新聞で長年地方競馬を見続けてきた菱木雄二郎記者は「キングハイセイコーの姿に”怪物”と言われた父ハイセイコーの雄姿を彷彿させられるものがあった」と書いている。さらに「巨体から繰り出す豪快なストライド・成績・姿とも一、二世と区別がつかないほどよく似ている」と記している。 この勝利でハイセイコーは産駒が日本ダービー(カツラノハイセイコ)と東京ダービーを制すという快挙を成し遂げた。 ダービー後は一息入れて、夏は7月25日に行われた地元のしらさぎ賞を圧勝。秋は南関東三冠を目指し9月19日の東京盃から始動したものの東京盃では落馬競走中止、三冠最終戦の東京王冠賞は、急遽主戦からテン乗りの騎手への乗り替わりやスタートでの出遅れなどもあり、ロツキータイガーから2馬身半差の2着に敗れ、三冠はならなかった〔『優駿』1985年1月号、日本中央競馬会、158頁〕。次走の地元・浦和のゴールドカップは59.5kgを背負いながらコースレコードで圧勝した〔『優駿』1985年3月号、日本中央競馬会、159頁〕が、年末の東京大賞典ではハナを切るも二周向正面で勝ったテツノカチドキにまくられて4着に終わった。東京王冠賞で敗れた際も距離が長かったとの指摘があった〔が、さらに2ハロン距離が延びた東京大賞典は勝ち馬から約10馬身もの差を付けられる大敗だった。 翌1985年は中央競馬に移籍し、緒戦の安田記念は初めての芝コースということもあり13着と大敗したが、札幌日経賞5着、札幌記念はリキサンパワーの2着(いずれもダートコース)を最後に引退し、種牡馬となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「キングハイセイコー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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