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キング・ケリー(Michael Joseph "King" Kelly, 1857年12月31日 - 1894年11月8日) は、19世紀のアメリカ・メジャーリーグの選手。主なポジションは右翼手。ニューヨーク州トロイ生まれ。右投げ右打ち。現役中に自叙伝を執筆するなど多才な選手であった。 == 略歴 == 1878年に当時のシンシナティ・レッズからデビュー。2年目の1879年に77試合に出場し.348の打率を残す。翌1880年にホワイトストッキングスに移籍し、1881年と1882年にリーグ最多の二塁打を記録するなど目だった活躍をし始める。 1884年からは4年連続で120得点以上を記録、同年リーグの首位打者となる。1886年には自身最高となる155得点、打率.388の高いアベレージを残し、2度目のリーグ首位打者となった。ホワイトストッキングス在籍時、ケリーは「ヒットエンドラン」の攻撃戦術や、「フックスライド(滑りながら、折りたたんだ側の足の先でベースを引っ掛けて止まる走塁法)」等の走塁技術、内野ゴロの際に捕手が一塁をカバーリングする守備戦術、投手と捕手の間のサインを使うことなど、次々といろいろな戦術や技術を編み出した。当時ホワイトストッキングスの監督をしていたキャップ・アンソンも、彼の賢さを賞賛していたという。ホワイトストッキングスは、この時期リーグを通算5度制覇、またアンソン自身何度も打点王になっており、その頃はケリーが出塁・盗塁してかき回し、アンソンが打って走者を還すという「得点パターン」だったことが推察できる。様々なゲーム戦術を考案する傍ら、抜け目のなさも一流で、審判が外野に気をとられている間に、相手走者のベルトホルダーを掴んで走塁を邪魔したり、自分の走塁の際は二塁ベースをショートカットして一塁から三塁へ走っていたという。 ファンサービスなどにもつとめ(「サインを書く」ことを広めたのは彼だと言われている)、社交的で人気選手となったケリーは、1887年に当時としては破格の1万ドルの金銭トレードでボストン・ビーンイーターズに移籍する。同年は84盗塁、120得点をマーク。盗塁はボストン移籍の前年の1886年から5年続けて50盗塁以上を記録していた(それ以前の盗塁数の記録は不明)。ボストンに移籍した翌年の1888年には、『Play Ball』というタイトルの野球の自叙伝を執筆し発表。またニューヨークにサロンを開くなど、フィールドの外での活躍もするようになっていた。ケリーは普段から煌びやかな服を着ていて、いつでもペットの猿を肩に乗せ、日本人のお供を従えていたこともあった。当時ボストンのアイリッシュ・サロンの殆どには、スライディングするケリーの絵が掛けられていたそうである。ケリーは飲酒の常習者でもあり、「ゲーム中に酒を飲んだりするのか?」と聞かれた時、「それはゲームの長さによる」と答えたという。ある試合ではボックス席のファンと一緒に酒を飲み始めてしまい、試合開始が遅れたこともあった。 1890年には新設されたプレイヤーズ・リーグで監督兼任となり、同年リーグ制覇を遂げるが、プレイヤーズ・リーグは1年で解散。彼はこのリーグを制した最初で最後の監督となった。1891年にはアメリカン・アソシエーションでシンシナティ・ポーカーズを率いたが、この頃ケリー自身はすでに監督としてチームを統率する気はなかったようで、シーズン途中でチームから放出されてしまった。1893年にジャイアンツに在籍したのを最後に選手を引退し、翌年の11月に、肺炎のため36歳で死去。担架で病院に運ばれる際、運んでいた人がバランスを崩し、彼は担架からすべり落ちてしまう。その時「これが人生最後のスライディングだな」と言ったという。 1945年、ベテランズ委員会によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「キング・ケリー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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