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キンシャサの奇跡
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キンシャサノキセキはオーストラリアで生産され、日本で調教された競走馬である。主な勝ち鞍は2010年、2011年の高松宮記念。馬名は、モハメド・アリがザイール共和国(現コンゴ民主共和国)の首都キンシャサでジョージ・フォアマンに勝ち、プロボクシング世界ヘビー級王座を奪還した際に謳われたキンシャサの奇跡から取られている。 == 経歴 == === 競走馬時代 === 2003年9月24日、オーストラリアにて誕生。美浦トレーニングセンター所属の堀宣行厩舎に入厩。 2005年12月3日、新馬戦にて、五十嵐冬樹騎乗でデビューし、デビュー戦で初勝利を挙げた。 年が明けた2006年1月5日、ジュニアカップも勝ち、デビュー2連勝を飾った。その後、第15回アーリントンカップで1番人気に支持されたものの6着と敗れた。続くNHKマイルカップでは3着に入った。 2008年3月30日の高松宮記念に於いて、岩田康誠と初コンビを組んで2着。7月6日の第15回函館スプリントステークスで、デビュー17戦目、重賞10戦目にして初の重賞ウイナーとなった。続くキーンランドカップでは、1番人気に支持されたものの、3着だった。そして迎えた大一番、スプリンターズステークスでは2着だった。 2009年はオーシャンステークスから始動。1番人気に推されたが、最後の直線で伸び切れず10着と大敗した。その後、3月29日の高松宮記念では10着に敗れた。休養を挟み、10月4日のスプリンターズステークスでは好位でレースを進めたが直線で失速して12着と惨敗した。続く10月31日のスワンステークスでは4・5番手でレースを進め、直線で先行して粘るアーリーロブストとの競り合いを制し、1年4ヶ月ぶりの重賞2勝目を挙げた。その後、12月20日の第4回阪神カップにミルコ・デムーロ騎乗で出走、スタートで出遅れたものの、直線で真ん中から一気に抜け出し、2着のプレミアムボックスとサンカルロ(同着)に1馬身差をつけて重賞3勝目を挙げた。 2010年も前年同様オーシャンステークスから始動。道中は中団内を追走し、直線では内で馬群をさばくのに手間取るものの、前が開いてからは一完歩ごとに差を詰め、残り100mで先頭に立ち勝利、重賞3連勝を果たした。そして3月28日の第40回高松宮記念、3枠6番という好枠から先行集団をマークしながらレースを進め、直線で先行したヘッドライナーを捉えて先頭に立つと、外から急襲したビービーガルダンをハナ差抑えて1着となり初のGI制覇を果たした。南半球産の日本調教馬が日本のGI級競走に優勝するのはグレード制導入後は初めて。それ以前に遡っても1956年天皇賞(秋)のミツドフアーム以来44年振りである。秋はセントウルステークスからの予定だったが、疝痛のため出走を取り消した。本番のスプリンターズステークスでは中団から追い込んで3位入線するも、ダッシャーゴーゴーの降着により2着に繰り上がった。マイルチャンピオンシップでは3番人気に支持され、道中中団を追走も直線でまったく伸びず13着と大敗した。12月18日の阪神カップでは好位4番手から抜け出すと、直線では逃げたレッドスパーダとの叩き合いとなり最後はクビ差で制し連覇を達成した。なお、この年のG1競走1勝、2着1回を含む短距離重賞3勝の成績が認められ、JRA賞最優秀短距離馬に選出されている。 2011年も前年同様オーシャンステークスから始動。掛かり気味に後方2番手で追走し、直線で外から猛然と追い込んだが2着。次の高松宮記念では3番人気に推された。レースでは積極果敢に先団を形成、直線で軽々と抜け出し追い込んできたサンカルロに1馬身1/4の差をつけ完勝。同レース史上初の連覇、騎乗したウンベルト・リスポリは来日初G1勝利を飾った。レース後は海外挑戦など次戦以降の模索もされていたが〔【高松宮記念】史上初!キンシャサ連覇 - デイリースポーツ 3月28日閲覧〕、翌日の3月28日に引退が発表された。引退後は社台スタリオンステーションで種牡馬となる。引退理由としては、そもそも今春に種牡馬入りのプランがあり、連覇で本決まりになったことが挙げられており、故障ではないと関係者から語られている〔キンシャサノキセキ電撃引退…今春から種付け 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「キンシャサノキセキ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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