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キンブリ・テウトニ戦争(キンブリ・テウトニせんそう、Cimbri-Teutons War)は、紀元前113年から紀元前101年に亘って行われた、民族系統不明のキンブリ人、ゲルマン系の民族であるテウトニ人(チュートン人)を中心とした勢力と共和政ローマによる戦争を指す。 英語圏では最も多数を占めたキンブリ人を指して、単にキンブリ戦争(Cimbrian War)とも呼ばれる。 ==概要== 三度に亘るポエニ戦争を制して地中海世界の大国へ躍進したローマは周辺領域の蛮族に対しても影響力を示し、幾つかの勢力と同盟関係を構築していた。 その一つであったタウリスキ人にキンブリ人が攻撃を仕掛けた事でローマの介入が始まったが、ローマ側はノレイアの戦いとアラウシオの戦いで大敗を喫した。原因は貴族による平民政治家の蔑視、貴族層の大規模農業による中産階級の没落、それらによって生じた武器自弁による市民軍制度の崩壊にあった。属州はおろかイタリア本土すら脅かされかねない状況は第二次ポエニ戦争以来の危機をローマに与え、同時期に起きていたユグルタ戦争と共に貴族中心の政治に不信感が抱かれる契機となった(閥族派、民衆派)。 そんな中、民衆の圧倒的支持を受けて執政官に当選した平民出身の軍人ガイウス・マリウスは大規模な軍制改革を実行に移した。彼はローマ軍の指揮系統・戦闘序列・訓練制度を一新し、また市民軍を装備を配給しての職業軍人制へと転換した。軍を再建したマリウスはアクアエ・セクスティアエの戦いとウェルケラエの戦いで蛮族の大軍勢を壊滅に追い込んだ。キンブリ人、及び彼らと同盟を結んでいたチュートン人、アンブロネス人、ティグリニ人は歴史上から消滅し、王は殺されるか捉えられ、また生き残った者はローマの奴隷とされた。 彼の残した軍制改革は帝政ローマ時代に至るまで踏襲され、ローマ軍の基本制度となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「キンブリ・テウトニ戦争」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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