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靳 雲鶚(きん うんがく)は、清末民初の軍人。北京政府に属した。初めは安徽派、後に直隷派に転じた。字は荐卿、薦青。兄は安徽派の「四大金剛」の1人である靳雲鵬。 == 事跡 == 保成速成参謀学堂を卒業。江北陸軍第13混成協参謀官、蘇州混成協参謀官、北洋第1軍参謀を歴任した。中華民国成立後、北洋第2路備補軍団長、陸軍第8混成旅団長を歴任する。 護国戦争(第三革命)後は安徽派に属する。1919年(民国8年)に第8混成旅旅長に昇進した。1920年(民国9年)7月の安直戦争で安徽派が敗北すると、直隷派に転じ、呉佩孚配下となる。1923年(民国12年)、第14師師長に昇進し、将軍府驍威将軍に任命された。1924年(民国13年)9月の第2次奉直戦争に参戦したが、直隷派敗北とともに下野する。 1925年(民国14年)冬に、呉佩孚が漢口で再起し、14省討賊聯軍を組織すると、靳雲鶚が聯軍副司令兼第1軍軍長に任命された。1926年(民国15年)春には、孫伝芳率いる5省聯軍第1軍軍長も兼任している。靳は山東省の旧直隷派部隊3個師を接収し、さらに開封に駐留していた岳維峻率いる国民軍第2軍を破った。まもなく、靳は河南省長に任命された。 1927年(民国16年)、呉佩孚が中国国民党の北伐軍に敗北すると、靳雲鶚は河南保衛軍総司令として直隷派の残軍を率い、一時は自立する。しかし、奉天派との戦いに敗れ、武漢国民政府に投降する。これにより、国民革命軍第2集団軍第2方面軍総指揮に任命された。ところがまもなく、再び呉の擁立を謀ったとして、第2集団軍総司令馮玉祥に包囲されて武装解除されてしまう。 靳雲鶚は蒋介石を頼ってその下に逃れる。まもなく南京の国民政府で軍事参議院上将参議兼河南宣撫使に任命された。1930年(民国19年)に引退し、実業界に転じている。 1935年(民国24年)10月23日、北平(北京)で死去。享年55。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「キン雲鶚」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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