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ギリェルモ・イグナシオ・カナス(''Guillermo Ignacio Cañas'', 1977年11月25日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス出身の男子プロテニス選手。シングルス自己最高ランキングは8位(2005年6月)。ATPツアーでシングルス7勝、ダブルス2勝を挙げた。「カニャス」の表記も多く見られる。 == 経歴 == カナスは同僚選手のギリェルモ・コリアと同じく、アルゼンチン最大の男子テニス選手であるギリェルモ・ビラスにあやかって命名された人である。1995年にプロ入り。1998年から、カナスは男子テニス国別対抗戦・デビスカップのアルゼンチン代表選手に選ばれた。1999年8月、アメリカ・ボストン大会でダブルス初優勝。2000年のシーズン中に、カナスは左手首の故障で4ヶ月間を棒に振り、一時は世界ランキングを227位まで落とした。それを乗り越え、2001年4月のハサン2世グランプリ(モロッコ・カサブランカ開催)の決勝でトミー・ロブレド(スペイン)を破り、シングルス初優勝を果たす。この年は4大大会でも初めての好成績を出し、全仏オープンとウィンブルドンの2大会連続で4回戦に進出した。ウィンブルドンの後、カナスはドイツ・シュトゥットガルト大会のダブルスでライナー・シュットラーとペアを組み、ダブルス2勝目を挙げている。こうして世界ランキングを15位まで戻したカナスは、男子プロテニス協会の2001年度「カムバック賞」(ATP Comeback Player of Year)を受賞した。 2002年の全仏オープンで、カナスはアルベルト・コスタとの準々決勝まで進出し、4大大会の自己最高成績を更新した。この年は1月の「チェンナイ・オープン」と8月の「カナダ・マスターズ」(トロント開催)で年間2勝を記録し、年間獲得賞金も110万ドルを稼いだ。カナスはこうして「年間100万ドル以上を稼いだ最初のアルゼンチン男子テニス選手」になる。しかし、2003年にカナスは再び大きな故障を抱え、3月14日に右手の手術を受けた。中手骨の靱帯損傷を治療した後、9月にツアーへ復帰する。2004年のシーズンには、彼はツアーのシングルスで年間3勝を挙げた。2005年の全仏オープンで、カナスは3年ぶり2度目のベスト8進出を果たすが、準々決勝で同じアルゼンチンのマリアノ・プエルタに 2-6, 6-3, 6-1, 3-6, 4-6 のフルセットで敗れた。 ところが、2005年2月21日にメキシコ・アカプルコで開かれた「メキシコ・テニス選手権」において、カナスが禁止薬物である利尿剤の「ヒドロクロロチアシド」に陽性反応を示したことが発覚する。2005年全仏オープンで2度目のベスト8に進出した直後、このドーピング問題が明らかにされ、カナスは国際テニス連盟(ITF)から2年間の出場停止処分を受けた。(全仏でカナスを破ったプエルタも、ラファエル・ナダルとの全仏決勝終了後に「エチレフリン」の薬物違反が発覚した。)この件はスポーツ仲裁裁判所(CAS)に持ち出され、カナスの出場停止処分は当初の2年間から9ヶ月短縮されて「15ヶ月」になった。問題が発覚した2005年6月11日から起算し、15ヶ月後の2006年9月11日に処分が解除された。 ギリェルモ・カナスはここからツアーに復帰を果たし、2007年からデビスカップ代表にも復帰する。2月9日-11日の「ワールドグループ」1回戦で、対オーストリア戦のシングルス2試合に勝利したカナスは、翌週の大会の決勝でフアン・カルロス・フェレーロに勝ち、3年ぶりとなるツアー7勝目を挙げた。3月に入り、カナスは「インディアンウェルズ・マスターズ」と「マイアミ・マスターズ」の2大会連続で世界ランキング1位のロジャー・フェデラーを破る快挙を成し遂げた。マイアミでは決勝まで進出したが、ノバク・ジョコビッチ(セルビア)に 3-6, 2-6, 4-6 のストレートで敗れて準優勝になった。全仏オープンでも2年ぶり3度目のベスト8に進出し、ニコライ・ダビデンコ(ロシア)に敗れた。 カナスは2010年に現役を引退した。引退後は指導者として活動しており、ティムラズ・ガバシュビリ、ウェイン・オデスニク、エルネスツ・ガルビスなどのコーチを務めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ギリェルモ・カナス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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