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ギジツコ(、()、(レーシウス)、旧称レツ (Lec))は、ポーランド北東部のヴァルミア=マズールィ県(旧 スワウキ県)に位置する町。人口は2004年の時点で2万9796人。ギジツコ郡の郡庁所在地である。 == 歴史 == 1340年にドイツ騎士団がマズーリ地方の湖に挟まれた地峡に城を築き、レッツェン(ポーランド語ではレツ)と名づけた。レッツェンはバルガ郡に属し、近くの入植地も紋章や印章の制定権を含んだ町権を取得し、1612年には全域がプロシア公領に入った。 伝説によると、聖人クヴェーアフルトのブルーノは1009年にスドヴィア人によってニェゴツィン湖で殺された。これを記念して、1909年には十字架がギジツコ近郊に建立された。 1701年にプロイセン王国となり、1773年には東プロイセンの一部となった。1709年から1710年にかけてペストが流行し、800人が犠牲となった。生き残った住民はたったの119人だった〔 〕。19世紀にはカルル・フリードリッヒ・シンケルの設計によるルーテル教会が町の中心部に建てられた。1871年にドイツ統一でドイツ帝国に入った。 1844年から1848年にかけ、マムリー湖(マウアセー湖)とニェゴツィン湖(レヴェンティンセー湖)の間の土地に要塞が築かれ、プロイセンのヘルマン・フォン・ボイエン軍事相にちなみボイエン要塞と名づけられた。19世紀中は最大で、かつ最も設備の整った要塞であった。1942年から1945年にかけてはラインハルト・ゲーレンの指揮下でドイツ軍事インテリジェンス・サービスの本部が置かれた。 ヴェルサイユ条約締結を受けて1920年7月11日に国際連盟の監視下で実施された東プロイセン国民投票では、99.97%(2万9378票)がドイツ残留を希望し、0.03%(9票)がポーランド移管を求めた。 1930年代、レッツェンにはケーニヒスベルク(現 カリーニングラード)に本部を置いた軍事1区の支部があり、軍事部隊が何隊か駐屯した。総統大本営「ヴォルフスシャンツェ」や陸軍総司令部もレッツェン近郊に置かれ、職員、工兵、警備兵が駐在した。今もギジツコの北およそ10kmのマウアーヴァルト地域に陸軍総司令部の掩体壕が残されている。 第二次世界大戦末期の1945年にソ連の赤軍に占領され、戦後ポーランドに組み込まれた。戦時中も留まったドイツ人は西に追放された。19世紀に東プロイセン南部で福音派ルーテル教会の牧師を務め、ポーランド語とポーランド文化を大いに支えたマズーリ人民俗学者のグスタフ・ギゼヴィウシュにちなみ、1946年にギジツコと改称された。 File:Bruno of Querfurt Cross in Giżycko.jpg|クヴェーアフルトのブルーノの丘と十字架。ニェゴツィン湖から File:POL Gizycko Twierdza Boyen 39.jpg|ボイエン要塞 File:Twierdza Boyen - 1.jpg|ボイエン要塞 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ギジツコ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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