|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ギヨーム=レブレヒト・ペツォルト(Guillaume-Lebrecht Petzold 1794年7月2日 - 没年不明)は、19世紀パリで活躍したピアノ製造技師。 == 生涯 == ペツォルトはマイセンに程近いザクセン州の村、リヒテンハインに生まれた。プロテスタントの牧師であった彼の父は美術商を学ばせるため1798年4月にドレスデンへと息子を連れだって赴き、そこでペツォルトは宮廷のオルガンとピアノの製造を行っていたカール・ルドルフ・アウグスト・ヴェンツキー〔翻訳元はチャールズ(Charles)であったが、ドイツ語名のカールに変更した。〕に弟子入りする。5年後、ヴェンツキーがしたためた推薦状を携えてウィーンを訪れ、それ以降1805年12月にパリへ旅立つまでアントン・ヴァルターの下で働くことになる。1806年4月にJ.プファイファーと協力関係を締結、初期の製品としてペツォルトがハルモメロ(''harmomelo'')と呼んだキャビネット型アップライト〔この楽器は縦方向に弦を張り、ダンパーが鍵盤からの柄によって操作されるフルサイズのアップライトであった(Harding. p248)。フランソワ=ジョゼフ・フェティスはこれをアップライト・グランドの一種と勘違いしている。〕、好評を博した三角形のピアノ、それらに続く改良型スクエア・ピアノを世に出した。両者は1814年に自前の工房を構え、その後のペツォルトの楽器が持つ音、機構、構造は彼に高い名声をもたらした。 ペツォルトがスクエア・ピアノに導入した拡大型の響板は、1806年のフランス国内博覧会に出展されたもののあまり注目を集めることはなかった。これはより大きな音量を得ることを目的としていたが、イギリスのスクエア・ピアノのアクションよりも弦の位置が高くなり、またより大きなアクションのてこ比が必要であった。彼はイギリス式のグランド・アクションをクランク・エスケープメントと個々のハンマー・フランジに置き換えたものの、より強い打鍵を可能とするためにはより強い弦の張力が必要となり、これによってフレームもより頑丈なものが求められた。こうした改良によってペツォルトの楽器はそれまでにない豊かさと表現の幅を備えることとなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ギヨーム=レブレヒト・ペツォルト」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|