|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ギリシャのユーロビジョン・ソング・コンテストでは、ギリシャにおけるユーロビジョン・ソング・コンテストについて述べる。2009年までに、ギリシャは1974年以来、1975年、1982年、1984年、1986年、1999年および2000年の各大会を除き、毎年ユーロビジョン・ソング・コンテストに参加をつづけている。26回目の参加となった2005年大会では、エレーナ・パパリズーの「My Number One」で、ギリシャは初めてユーロビジョン・ソング・コンテストの優勝国となった。このとき、視聴者投票によって、最高得点である12点をギリシャに送った国は全部で10にのぼり、1997年大会でのカトリーナ・アンド・ザ・ウェイヴス(Katrina and the Waves)の「Love Shine A Light」と並んで過去最多となった。2005年大会の後、エレーナ・パパリズーの参加曲はギリシャに加えてキプロスとスウェーデンで首位となったほか、ルーマニア、オランダ、ハンガリー、ベルギー、そしてアメリカ合衆国のBillboard Hot Dance Club Playでも10位以内に入った。2005年、ユーロビジョンは50周年を記念する特別プログラム・Congratulationsを催し、その中でエレーナ・パパリズーの「My Number One」は、「Hold Me Now」(1987年)、「Nel blu dipinto di blu」(1958年)、「Waterloo」(1974年)に次いで4位に選ばれた。ギリシャが優勝を果たした2005年以前で最も高い順位を出したのは2001年大会でのアンティーク(エレーナ・パパリズーを含むデュオ)の「Die for You」と、2004年大会でのサキス・ルーヴァスの「Shake It」で、ともに4位であった。ギリシャの最低順位は1998年でのThalassaの「Mia Krifi Evesthisia」で、キプロスからの12得点のみを得て20位に終わった。 2006年、ユーロビジョン・ソング・コンテスト2006は、前年の大会でのギリシャの優勝により、ギリシャのアテネで開催された。司会を務めたのはかつてギリシャ代表として大会に参加したサキス・ルーヴァスと、ギリシャ系アメリカ人の司会マリア・メヌーノス(Maria Menounos)であった。ギリシャ代表として大会に参加したのはキプロスのギリシャ人歌手アナ・ヴィッシ(Anna Vissi)であった。 == 投票 == ギリシャは、特に近年はキプロスとの間で最高得点である12点を互いに入れあっていることで知られている。このほかの例として、バルカン半島の国々、スカンディナヴィアの国々、かつてのソビエト連邦の国々、バルトの国々は互いに投票しあうことが知られている。ギリシャとキプロスが互いに12点を入れあうことについては、両国の住民の多数派を占めるのは共にギリシャ人であり、ギリシャ語を話し、共通の音楽感覚を持っていることが理由ではないかと考えられている。この投票同盟に関する批判を受け、2008年大会の準決勝ではギリシャとキプロスが互いの国に投票することは禁じられた。大会前のプロモーション活動では、ギリシャとキプロスの代表はEuroclubを共催し、他の17箇国の参加者や1500人の観客を集めた。 キプロス問題をめぐる政治的論争や、幾つかの島をめぐる領有権主張の食い違いによる緊張関係にも関わらず、ユーロビジョンにおいてギリシャは隣国トルコとは友好的な関係を築いている。たとえば、2005年大会において、ギリシャ代表のエレーナ・パパリズーにはトルコから12得点が送られた。しかし2004年、トルコで大会が開かれたとき、ギリシャとキプロスの決勝進出の発表は一番後回しにされ、両国の代表は決勝進出を果たした他の国々の間に埋没してしまった。 ギリシャは、準決勝が導入された2004年以降、2010年大会まで毎年決勝に出場している。2004年から2010年までの間、ギリシャは毎年、決勝で10位以内に入ってきている。ギリシャは2004年大会には3位、2005年大会では1位、2006年大会では6位、2007年大会では7位、2008年大会では3位である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ギリシャのユーロビジョン・ソング・コンテスト」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|