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ギリシャ国(, ラテン文字転記:Elliniki Politeia)は、第二次世界大戦中にギリシャに存在したナチス・ドイツの傀儡国家である。 ギリシャ王国は第二次世界大戦中、イタリアの侵攻を受け、続いて始まったドイツ軍の侵攻により、ドイツ、イタリア、ブルガリアによって占領された。占領は1944年10月、ドイツ軍の撤退まで続いたが、クレタ島を始め島嶼地域は1945年5月、もしくは6月までドイツ軍の占領下にあった。 1940年10月、イタリアはギリシャに侵攻したが撃破され、反対にギリシャ軍のアルバニア侵攻を許していた。このため、ドイツ軍はバルカン半島への連合軍の上陸を懸念せざるを得なくなり、ソ連侵攻作戦である「バルバロッサ作戦」の延期を余儀なくされた。1941年4月、ドイツ軍はギリシャ侵攻を開始、迅速な電撃作戦の前に5月半ばにはギリシャは枢軸国ドイツ、イタリア、ブルガリアの占領下となった。この占領はギリシャ人に恐ろしい負担をもたらし、300,000人以上が飢え死にし、数千人が報復で殺され、ギリシャ経済は破綻した。そのため、ギリシャではパルチザン活動が発生した。これらのパルチザンはゲリラ活動を開始、各地のパルチザンはネットワークを形成してスパイ活動を行ったが、1943年後半からはお互いの主義主張の違いから内戦を始めていた。1944年10月、ギリシャが解放された時、ギリシャは危機的状況であり、それは内戦の勃発を招くこととなった。 ==降伏== 1940年10月28日、エマヌエーレ・グラッツィイタリア駐ギリシャ大使はギリシャ首相イオアニス・メタクサスへ最終通告を通達した。メタクサスは最終通告を拒絶したが(この日は、ギリシャの祝日となった)〔周藤、村田(2000)、p.269.〕、その3時間後にはアルバニアからイタリア軍はギリシャへ侵攻を開始、ここにギリシャ・イタリア戦争が開始された。イタリア統領ベニート・ムッソリーニはイタリア軍がドイツ軍と同等の戦力を保持していることを証明するために、ギリシャに侵攻を行ったが、これにはヨーロッパ南東部がイタリアの勢力圏であるという考えも含まれていた。 ギリシャ軍はイタリアが考えていたよりも優秀であり、エピルスの山がちな地形を利用して有効な戦闘を行っていた。イタリア軍は当初は内陸部への進撃に成功したがギリシャ軍はこれに反撃、西マケドニアではゴリツァを占領するなどイタリア軍を押し戻した〔スボロノス、(1988)p.110.〕。イタリア軍は増援を送るなどの対策を取ったにもかかわらず、12月中旬にはアルバニアの4分1を占領した。1941年3月、イタリア軍による大規模反撃は失敗に終わり、結局小規模な地域を保持する事態となった。その後、ドイツの介入でギリシャ軍が敗北、枢軸国の勝利に終わったとはいえ、このギリシャ軍のイタリアに対する勝利は第二次世界大戦中の連合国による初めての勝利と言えた。 ギリシャ軍の総勢21個師団のうち、15個師団がイタリアとの戦いに駆り出され、残りの6個師団はドイツ軍による攻撃が予想されたため、メタクサスライン(ギリシャによる、ユーゴスラビア、ブルガリア国境に築かれた防衛線)で防衛任務に就いていた。その頃、ギリシャ政府の要請により、イギリス内閣首相、ウィンストン・チャーチルがリビア在住のイギリス連邦軍を送ることを決定、ギリシャは支援を受けることとなった。しかし、ギリシャ軍はヴァロナの占領に失敗、イタリア軍もなんとかアルバニアでの戦線再編に成功したためにこう着状態に陥った〔ウッドハウス、(1997)p.318.〕。 1941年4月5日、膠着状態に陥った状況打破を図ったドイツ軍はイタリアの支援のためにバルカン半島への介入を開始、ユーゴスラビアへの侵攻と同時に、ブルガリア経由でギリシャへの侵攻を開始した。ギリシャ軍とイギリス連邦軍は反撃を行ったが、圧倒的なドイツ軍の攻撃の前に圧倒されていた〔ウッドハウス、(1997)pp.323-324.〕。 4月20日、ギリシャ北部での戦いが終了した後、マケドニア東部でエーゲ海への出口を求めていたブルガリア軍の侵入が開始され、ブルガリア軍はストルマ川(Strimon river)以東からエビロス川(Evros river)以西のアレクサンドルーポリを含む地域を占領、ギリシャ軍司令部は4月24日に降伏した〔スボロノス、(1988)p.110.〕。 さらにギリシャの首都アテネは4月27日に占領され〔、6月1日までにはクレタ島を含むギリシャ全土が占領された〔ウッドハウス、(1997)p.325.〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ギリシャ国」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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