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ギリシャ軍事政権(希:)は、1967年から1974年まで存在したギリシャにおける軍事独裁政権のことである。1967年4月21日、ギリシャ軍の将校が蜂起して政権を掌握した時に始まり、1974年7月24日、亡命していたコンスタンディノス・カラマンリスが帰国して新政権を樹立した時に終焉を迎えた。'')は、1967年から1974年まで存在したギリシャにおける軍事独裁政権のことである。1967年4月21日、ギリシャ軍の将校が蜂起して政権を掌握した時に始まり、1974年7月24日、亡命していたコンスタンディノス・カラマンリスが帰国して新政権を樹立した時に終焉を迎えた。 ==歴史== ===背景=== 1958年のギリシャ国会総選挙において、共産党(1946年に非合法化された)が支持する民主左翼連合が第二党に躍り出た。この結果には与党である国民急進党、これまで第二党を担ってきた中道諸政党も驚かざるを得なかった。そのため1961年10月に行われた総選挙では左翼が躍進することにより共産主義勢力の復活を恐れた右派勢力により、ありとあらゆる選挙妨害が行われ、悪名高い『暴力と欺瞞の選挙』と化したが、これは冷戦構造の中、周りを共産主義国家に囲まれており、アメリカの地中海戦略の一端を担う国であることが原因であった〔桜井(2005)、pp.344-245.〕〔リチャード・クロッグ、(2004)pp.167-169.〕 。 しかし、このような選挙妨害にも拘らず、中道諸政党が合流した中央同盟は33%の得票を得、政権交代が可能な第二党と化した。このため、中央同盟党首ゲオルギオス・パパンドレウは民主的な再選挙を要求して『不屈の闘争』を宣言。中央同盟と民主左翼連合は選挙が不正であったとして街頭でデモを行ったが、これを主導していた左翼の国会議員グリゴリス・ランブラキスが暗殺されたため、それまでの国民急進党政権は方向性を見失った上にコンスタンディノス・カラマンリス首相と親ナチス的で評判の悪かったフレデリキ王妃との確執も表面化するなど、ギリシャ政局は一気に不安定に陥った。全国規模に広がった民主化要求のために1963年11月、再選挙が行われたが、穏健な改革政策を唱える中央同盟は王室とアメリカの支持を得た上で世論の支持を集めて勝利を収め、左派の協力を得た上でパパンドレウが組閣し、カラマンリスは国民急進党党首を辞すると共にフランスへ出国した。翌1964年2月には再々選挙が行われ、中央同盟は絶対多数の議席を得て中道単独の政権が樹立された〔桜井(2005)、pp.345-346.〕〔リチャード・クロッグ、(2004)pp.169-172.〕 。 パパンドレウは政権掌握後、国民的和解を挙げて内戦時代から収容されていた政治犯の釈放や東側諸国との関係改善を進めた。しかし、こうした動きに対してギリシャを地中海東部における共産主義の防波堤と考えていたアメリカやギリシャ軍部の右派勢力は苛立ちを隠せず、さらにキプロス問題が常にパパンドレウ政権の背後に忍び寄っていた。そのため、軍部内の右派はCIAと協力して『アスピダ(楯)事件』を捏造、パパンドレウの息子アンドレアスがそのリーダーであるとして中傷作戦を開始した。しかし、アンドレアスは当時、不逮捕・不起訴特権のある国会議員であったため、『アピスダ事件』の容疑者として捕らえることはできなかった〔。 こうしたことから、パパンドレウは軍の粛清を企図しガルファリス国防相や参謀長の更迭を国王コンスタンディノス2世に上奏したが、国王はこれを拒否した〔スボロノス、(1988)p.156.〕。パパンドレウ政権発足の暫く後、パウロス1世の崩御で新たに国王となったコンスタンディノス2世とパパンドレウは関係があまり好くなかったが、この事で対立が決定的となり1965年7月にパパンドレウはコンスタンディノス2世に辞表を呈上、国王に譲歩ないし議会解散を迫る政治的賭けであったが、逆に彼の辞職が国王に利用され、中央同盟所属ながら王党派の国会議長ゲオルギオス・アタナシアディス=ノヴァスを一本釣りする形で首相に任命した〔桜井(2005)、pp.346-347.〕〔リチャード・クロッグ、(2004)pp.172-175.〕〔ウッドハウス、(1997)p.386.〕 。しかしこれは逆に中央同盟主流の態度を硬化させ、アタナシアディス=ノヴァス内閣は国会の信任が得られぬまま退陣に追い込まれる。次いでパパンドレウ政権の内相だったイリアス・ツィリモコスに国王は組閣を命じたものの、ツィリモコス内閣もわずか1ヶ月弱で国会から不信任を受けて辞職するなど危機は収まらず〔桜井(2005)、p.347.〕〔リチャード・クロッグ、(2004)pp.175-176.〕、 ギリシャ国民は「『アスピダ事件』は軍による政治介入である」」として「70日間運動」を展開、各地でデモを行なった。 同年9月、パパンドレウ政権の副大臣を務めていたステファノス・ステファノプロスが、ツィリモコスやノヴァスなどの中央同盟離脱派、カラマンリスの出国後パナギオテイス・カネロプロス元国防相が率いていた国民急進党の支援を受けた上で組閣した。これに猛反発したパパンドレウは集会で即時の議会解散と総選挙を要求、左翼の中には君主制の廃止や革命を訴える者までも出始めた。このため1965年9月、国会で内閣信任投票が行なわれたが、辛くもステファノプロスは勝利を収める事ができた。しかしステファノプロス政権下のギリシャはストライキが相次いだりして海外の投資家が資本を引き揚げるなど、1年半続いたといえどもこれ以上の長期政権はもはや期待できない状態であった〔ウッドハウス、(1997)p.387.〕。1966年4月には外相として入閣していたツィリモコスが辞任。1966年末には国民急進党も内閣への支持を取り下げた。そのため、左翼、右翼両方からの支持を失ったステファノプロス政権は総辞職に追い込まれた〔ウッドハウス、(1997)pp.387-388.〕。 ステファノプロスの後任には、1964年の最初の4ヶ月間(第2次と第3次のパパンドレウ政権の間)首相の職にあったイオアニス・パラスケヴォプロスが命じられたが、『アピスダ事件』に関連してパパンドレウが国会議員の不逮捕不起訴特権を選挙期間中に延長する事を提案。これをカネロプロスが拒否したため、主要政党らの関係が悪化し、第2次パラスケヴォプロス政権も総辞職した〔。 コンスタンディノス2世は(中央同盟からの相次ぐ王党派の離党で第一党となった)国民急進党のカネロプロスに新たな内閣の組閣を命じたが、カネロプロスは国会の信任を得る事ができないとしてコンスタンディノス2世に国会を解散をするよう上奏、コンスタンディノス2世はこの上奏を裁下した。これを受け、カネロプロスとパパンドレウの間で会談が持たれ、1967年5月28日に総選挙を行うことが決まり、カネロプロス率いる選挙管理内閣が組閣された。そして、総選挙で中央同盟が勝利することは確実な状況であった〔〔〔 。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ギリシャ軍事政権」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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