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マルクス・ファビウス・クインティリアヌス(またはクインティリアーヌス、Marcus Fabius Quintilianus, Quintilian, or Quintillian, Quinctilian, 35年頃 - 100年頃)はヒスパニア出身のローマ帝国の修辞学者。中世、ルネサンス期の著作に広く言及されている。 == 生涯 == クインティリアヌスは、ヒスパニアのカラグリス(現ラ・リオハ州カラオラ)に生まれた。父親は教養ある人物で、息子をネロが統治してまもないローマに修辞学(レトリック)の勉強のため留学させた。そこでクインティリアヌスはドミティウス・アフェル(:en:Domitius Afer)との親交を築いた。「それが常の習わしであった……公生活の中で野心を抱く若者たちが、その手本を先達に求めることが……そして、その人を師と見なすことが」〔Kennedy, 16〕。明らかにクインティリアヌスはアフェルを自分の手本として、その弁論を聴き、法廷で裁判の弁護をした。アフェルはセネカの時代の一般的な弁論家よりも厳格かつ古典的で、キケロ風の弁論家だったと言われている。クインティリアヌスのキケロへの敬愛はおそらく、このアフェルによって導かれたのであろう。 59年にアフェルが死んだ後、クインティリアヌスはいったんスペインに戻った。おそらく、出身地の法廷で法律の経験を積むためだったと思われる。68年、クインティリアヌスはネロの後継皇帝ガルバの随員としてローマに戻った。とはいえ、ガルバの側近ではなかったようで、翌69年にガルバが権力争いで殺された後もクインティリアヌスは無事生き残ることができた。 「四皇帝の年」と呼ばれる混沌とした内乱期の時に、クインティリアヌスは修辞学の学校を開校した。生徒の中には、小プリニウスがいて、もしかしたらタキトゥスもいたかも知れない。皇帝ウェスパシアヌスが執政官となって、助成金が下り、財政上の懸念が取り除かれたことで、クインティリアヌスはより学校に身を入れることができるようになった。「(皇帝は)とくに芸術に関心はなかったが……知識階級と信頼できる支配者階級を作る手段としての教育には関心があった」〔Kennedy, 19〕。さらにクインティリアヌスは法廷にも立ち、依頼人の弁護をした。 クインティリアヌスの私生活はほとんど知られていないが、『弁論家の教育』の中でクインティリアヌスは、若くして死んだ妻と、父親に先立って死んだ2人の息子について言及している。 88年、ドミティアヌスの在位期間、クインティリアヌスは教育・弁護の両方から身を退いた。おそらく経済的な余裕と、余生を悠々と生きていける人間になれたことが、引退を決意させたのであろう。 クインティリアヌスは、何人もの皇帝の治世下を生き抜いた。ウェスパシアヌスとティトゥスの治世では比較的平和だったが、ドミティアヌスの時代は、一番良い時でも廃れた時期だろう。ドミティアヌスの次第に強まっていく残忍性と疑心暗鬼に、クインティリアヌスはおそらく距離を置いたに違いない。しかし、ドミティアヌスがそれに立腹したわけでもなさそうに思えるのは、90年にクインティリアヌスは、ドミティアヌスの2人の姪の息子と相続人の家庭教師になったからである。しかし、それをもって信用の証とは言えないのかも知れない。「その時点で(クインティリアヌスは)『弁論家の教育』を完成しておらず、2人の若者——不安定な皇帝の潜在的ライバル——は追放されいなくなった」〔Murphy, xx〕。 クインティリアヌスはその余生を『弁論家の教育』の執筆に費やした。没年月日は、正確なところはわからないが、100年頃だろうと言われている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「クインティリアヌス」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Quintilian 」があります。 スポンサード リンク
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