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クェゼリン島の戦い(クェゼリンとうのたたかい)とは、1944年(昭和19年)1月30日に、日本軍の守るクェゼリン環礁へアメリカ軍が侵攻して行われた戦闘である。防衛態勢が整っていなかった日本軍は短期間の戦闘で全滅した一方、1943年11月のタラワの戦いでの苦い教訓を学んだアメリカ軍は、クェゼリン環礁内の2つの要所にほぼ同時に上陸し、日本軍の抵抗を撥ね退けて勝利をものにした。また、アメリカ軍が日本の領土を占領したのは、委任統治領とはいえこれが初めてのことであり、日本本土への飛び石作戦を次の段階に進める上での重要な勝利となった。日本軍が採った水際作戦は失敗に終わったものの、日本軍はこれを糧として、以後のグアム、ペリリュー、硫黄島へと続く縦深防備の強化に努めることとなる。 == 背景 == === 日本軍の事情 === 日本は第一次世界大戦の結果、クェゼリン環礁を含むマーシャル諸島の委任統治を行っていた。1941年1月、日本海軍はクェゼリン島に第六根拠地隊司令部を配置し、クェゼリン環礁はマーシャル方面の中枢基地となった〔#戦史62p.600〕。1943年に至り、アッツ、タラワ、マキン環礁を相次いで失った日本軍は、次のアメリカ軍の攻撃目標は東部マーシャル諸島、特にマロエラップ環礁、ウォッジェ環礁のどれかであると予想していた。そのため、これらの島々の防衛充実に力を傾けており、クェゼリン環礁の防御は疎かであった。もっとも、優先的に防備を進めていた島でも、各島ごとに編成された海軍警備隊のほか、陸軍南洋第一支隊の隷下部隊など各島に戦闘員3,000名から5,000名程度を配置しており〔ジャルート:2,466名、マロエラップ:3,488名、ウォッジェ:3,990名、ミリ:5,328名(#戦史62p.585)〕、沿岸砲の配備などは進んでいた。 1944年初頭時点でのクェゼリン守備隊は、第六根拠地隊(秋山門造少将)隷下の第六十一警備隊(山形政二大佐)の約1,500名、陸軍所属の海上機動第一旅団機動第二大隊(阿蘇太郎吉陸軍大佐)約670名を主力として構成されていた。このほか約5,500名の将兵や人員がいたが、第一海上機動旅団第三大隊員約250名と南洋第一支隊の一部約100名を除けば、残りは航空部隊の地上要員や海軍設営隊、山九から派遣された作業員、日本銀行関係者で、ほとんど戦闘力は無かった〔#戦史62pp.600-601〕。秋山少将は、タラワ戦の教訓から海岸線だけでなく内陸にトーチカや戦車壕を構築するよう命令したが、島の地盤は珊瑚礁のため掘削が困難なうえ海抜はきわめて低く、1メートルでも掘れば海水が湧きだしてしまい〔#岩崎p.27〕、地下陣地の構築はできなかった。地上構造物も土台石のない掘っ立て小屋みたいなもので〔、椰子の木で掩蔽壕を構築するのがやっとの状況であった。総指揮官秋山少将の下、クェゼリン島の防備地区は南北に区分され、南部は阿蘇大佐が全陸軍部隊と陸戦隊、地上要員を指揮し、北部は山形大佐が陸戦隊以外の全海軍部隊を指揮することとなった〔#戦史62p.601〕。侯爵音羽正彦大尉(朝香宮鳩彦王と明治天皇第八皇女・允子内親王の第二皇子)も従軍した。 一方、環礁の北部に位置するルオット島(ロイ島)には第二十四航空戦隊(山田道行少将)司令部が置かれ、ルオット島に飛行場が、東隣のナムル島に関連施設が置かれていた〔#戦史62p.596〕。守備隊の状況はクェゼリン島と比べて貧弱であり、第六十一警備隊分遣隊約400名を中心とし、その他航空要員や設営隊などを合わせて約2,900名が所在していたものの、陸軍部隊は駐屯していなかった〔#戦史62p.597〕。山田少将が全部隊の指揮を執った〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「クェゼリンの戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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