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クディリ王国(クディリおうこく、Kerajaan Kediri)、クディリ朝(クディリちょう)は、10世紀初頭まで続いた古マタラム王国以後、13世紀のシンガサリ朝以前にインドネシアのジャワ島東部に繁栄していたヒンドゥー教を奉ずる古代王朝で、広義には、古マタラム王国のダクサ王の子孫とされるイサナ家のムプ=シンドク王(位929年~947年)がジャワ東部のスメル山とウィリス山の間のワトゥガル地方に本拠地を移してから、1222年にシンガサリ朝を建てたケン=アンロクによって滅ぼされるまでの時期区分をさし、狭義には、アイルランガ(エルランガ)王(位1019年~49年)が自らの王国をジャンガラ王国とパンジャル王国に分割したうち、クディリに都したパンジャル王国をクディリ王国、クディリ朝と呼ぶ。しかし通常日本では、前者の時期区分でクディリ朝の時代を捉えるため、本稿でもそのように扱う。 ==クディリ王国(イサナ朝)の建国と挫折== 中部ジャワから東部ジャワに権力の重心が移ったことについては、火山噴火などの自然災害や疫病などという説が唱えられてきた。しかし、イサナ家が東部ジャワ在地の王朝か古マタラム王国の血統を引く王朝かにかかわらず、ジャワ海に直接つながるプランタス川流域の豊かな生産力と南シナ海とインド洋を結ぶ海上交易を行ううえで中部ジャワより地理的に有利であることを重視して、東部ジャワを王朝の本拠に選んだということである。なお、ムプ=シンドクは、古マタラム王国のトゥロドン王(位919年~924年)のときに、ラクリャン・マハマントリ・イ・ハルの職にあり、最後のワワ王(位924年~929年)のときにラクリャン・マハマントリ・イ・ヒノといういずれも本来は、次の王になるべき王子たちが勤める職に任じられていた。また、ワワ王の女婿であったため、王位につくことができたと考えられる。ムプ=シンドクの治世は、平和であって、彼自身はヒンドゥー教を奉じていたが、他宗教にも寛容であり、タントラ仏教の書物を作らせたり、聖地としての寺院の建築をさせて、土地税を免除したりする政策を採った。ムプ=シンドクの後は、娘のシュリー・イサナトゥンガヴィジャヤが後を継ぎ、彼女の夫ロカパラ王との子、マクサワンサワルダナがさらにその後を継いだ。マクサワンサワルダナには、娘のマヘンドラダッタと息子か女婿のダルマヴァンシャがいた。マヘンドラダッタは、バリ王ウダヤナに嫁ぎ、ダルマヴァンシャ(位991年~1016年)が後を継いだ。ダルマヴァンシャは、即位後間もない時期にマレー、スマトラ方面へ出兵し、シュリーヴォジャヤの勢力圏を一時的に支配することに成功したが、地方領主の一人ウラウリ王の反乱によって殺害された。それは、彼の娘とその婿アイルランガの結婚式のときだったと伝えられる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「クディリ王国」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kediri Kingdom 」があります。 スポンサード リンク
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