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クトラ・カン(Qutula Qan、生没年不詳)は、モンゴル部ボルジギン氏モンゴル国の第3代カン。父カブル・カンに始まるキヤト氏第2代当主。『元朝秘史』ではクトラ・カハン (Qutula Qahan) と表記される。 ==生涯== カブル・カンの四男として生まれる。 アンバガイ・カンがタタル部族の乣(ちゅう:国境守備隊)に謀られ、金帝国によって処刑されると、全モンゴル族はオナン河のゴルゴナク河原(ジユブル)に集まって、クトラを3代目のカンとした。クトラ・カンはアンバガイ・カンの遺言により、アンバガイ・カンの子カダアン・タイシと共にタタル討伐に出陣した。2人はまず、タタル族のコトン・バラガとジャリ・ブカの両首長と戦闘になり、13回〔無限の意。これはモンゴルにおける数詞の用い方である。≪村上 1970,p77≫〕も戦った。〔 村上 1970,p76-77〕 クトラ・カンはカダアン・タイシ、イェスゲイ・バアトルと共に、金帝国に対して兵を進めた。アンバガイ・カンと、クトラの兄オキン・バルカクの仇討ちである。クトラ・カンは全モンゴル族を従えて中国領土に侵入し、敵軍を破り、おびただしい掠奪品を持ち帰った。中国遠征から帰ると、クトラ・カンは一族の数人と一緒に狩猟に出かけた。折しもモンゴルのドルベン氏族の戦士に襲われ、弱体な従者は真っ先に逃げ帰った。クトラ・カンは逃れようとして沼地に入り、馬を首まで深みにはまらせてしまう。そこでクトラ・カンは鞍の上に立って泥濘から飛び出して脱出した。対岸にいたドルベン人たちは「馬を失ったモンゴル人は何が出来ようか」と言って追撃を諦めた。敵が去った後、クトラ・カンは引き返して自分の馬を泥濘から引きずり出し、ドルベン人の領地から彼らの馬群を奪って帰還した。時に、クトラ・カンの領地では先に逃げ帰った従者によってクトラ・カンが死亡したことになっており、イェスゲイ・バアトルによって葬儀の準備がなされていた。〔佐口 1968,P29-30〕 クトラ・カンの死後、モンゴル部のボルジギン氏はキヤト氏とタイチウト氏に分かれ、キヤト氏はイェスゲイ・バアトルによって取り仕切られた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「クトラ・カン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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