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公人 (役職)
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クニン(クロアチア語:、ラテン語:、中世ハンガリー語:、イタリア語:、セルビア語:)は、クロアチアのシベニク=クニン郡に位置する都市。クルカ川の源流近く、にあり、ダルマチア内陸部、ザグレブとスプリトを結ぶ鉄道路線の途中に位置している。クニンは歴史上、2度おおきく注目を集めており、1度目は中世クロアチア国(medieval Croatian state)の首都として、そして2度目は国際的に承認されることのなかった短命の国家・クライナ・セルビア人共和国の首都としてである。ザダル、スプリト、シベニクからの鉄道網はこのクニンを経て首都のザグレブへと結ばれており、交通のうえで大きな重要性を持っている。 == 歴史 == 現在のクニンの近くには、紀元前1世紀にイリュリア人やローマ帝国の軍事拠点として機能したブルヌム(Burnum)という町があった。 クニンが初めて文献に登場するのは10世紀のコンスタンティノス7世の頃で、教区の中心として記されている。クロアチア人の教区は1040年に設置され、その支配権はドラーヴァ川まで及んでおり、「クロアチア主教」がその首座にあった。 クニンはまた、ドミタル・ズヴォニミル(Dmitar Zvonimir)の統治下にあった1080年ごろから中世クロアチア国家の首都であった。クニンに残された多くの遺産のために、クニンはしばしば「クロアチアの王たちの町」あるいは「ズヴォニミルの町」として知られてきた〔2001 Info Adriatic 〕。10世紀から13世紀にかけて、クニンは重要な軍事的要塞となった。10世紀にはスパス山(Spas)に要塞が作られ、要塞が現在の形になったのは18世紀のことである。この要塞はダルマチア地方でも最大級のものであり、上部、中部、下部がそれぞれ吊り上げ橋で結ばれている。 その戦略的な位置関係のために、クニンは多くの戦争や変革において重要な役割を果たした。クロアチア王国の支配者たちにはじまり、ハンガリー王国、ヴェネツィア共和国、オスマン帝国、オーストリア、フランスがこの地を支配した。 1522年5月29日、クニンの要塞はオスマン帝国の手に落ち、町のクロアチア文化は大きく衰退した。町にはオスマン帝国から逃れてきたセルビア人たちが居住するようになった。1世紀半が過ぎ、町には部分的にクロアチア人住民が戻り、フランシスコ会は1708年に修道院と教会を建てた。 クニンはその後1797年にカンポフォルミオ条約(Campoformio)によって、他のダルマチア地方とともにハプスブルク家の手に渡った。1805年のプレスブルクの和約によって、フランス帝国はクニンを手に入れ、1809年にイリュリア州(Illyrian Provinces)に組み込まれた。1813年、オーストリアは町の支配権を取り戻した。19世紀の終わりには、ハプスブルク家の支配するダルマチア地方の一部として、クニンは交易と交通の拠点として発展した。 1867年、クニンはダルマチアの一部となり、オーストリアのチスライタニアの一部となった。第一次世界大戦の後、1918年にクニンは新たに独立したスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国の一部となった。同国は程なくセルビアと合併してセルブ・クロアート・スロヴェーン王国の一部となり、この国は1929年にユーゴスラビア王国に改称された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「クニン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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